開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

只の人が自立するために

野々市市の読書会仲間にTさんがいる。ぼくを含めて男性会員は3名で、Tさんはその中の一人だ。ずっとタクシーの運転手をされていて、定年後も奇数日だったか偶数日だったかは元の会社で働いている。短歌の会にも入っていて歌を作ったり、簡単な時代小説も書かれている。Tさんの読書会での感想は9割がたあらすじを自分なりにまとめて、最後にほんの少し自分の感じたことを付け足すというパターンだ。いつも聞いていて、あらすじはみんな読んできているので必要ないのにと心で呟くのだが、みんな黙っている。Tさんには自分がない、いわゆる客観的な読みなのだ。自分がその小説を読んだという事実だけがTさんには重要なのだろう。しかしそれではみんなで読む読書会の意味がほとんどない。自分一人ではなかなか読めないが仲間だと読み続けられる、というところなのだろう。

自分の感じたことや意見を人前で話す訓練を日本人は、小さい頃からやってこなかった。欧米では学校教育にちゃんと組み込まれて、自分を主張する態度が身につくのだ。自分を主張することを求められ、それをみんなじっと聞いて受け止め、今度はそれに応える人が自分の意見を述べて、同意や反論を展開していくのだ。そのようなコミュニケーションの場を、もう老境の身になろうとしている仲間でやろうとしても難しいのは当たり前だ。

会社をやめ職業を持たない只の人になり、肩書きのない自由な場の中でどのように自立するか、それは日本人にはとても難しいことかもしれない。でもとりあえずは感じたことを仲間に聞いてもらえるように話すことから、自立に向かうしかないのではないだろうか?