開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

ひとりでにぼくの中から出たがっているもの

まず以下の文章を読んでほしい。2年前にも引用したヘルマン・ヘッセデミアン」からのものだ。

「ただひとつ、できないことがあった。他の連中がするように、心の中にもうろうと隠れている目標を外に引っ張り出して、どこでもいいから目前にえがくということだった。他の連中は、自分たちが教授なり裁判官なり、医者なり芸術家なりになろうとしているのを、それまでにどのくらい時間がかかるか、そしてそうなれば、どういう利益があるかということをはっきり知っていたのだ。ぼくにはそれができなかった。もしかしたらぼくだっていつかはそんなことができるかもしれない。しかしどうしてそれがぼくにわかろう。おそらくぼくも、何年もの間さがしにさがし続けねばなるまい。そしてろくな者にならず、目標には達しないだろう。あるいはまた、目標に達することもあるかもしれない。しかしそれは、悪い、危険な、恐ろしい目標である。ぼくはむろん、ただひとりでにぼくの中から出たがっているものだけを、生きようとしているにすぎない。それがなぜ、こうまでひどくむずかしいのだろう。」 

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ぼくも大学受験の時や就職活動が始まる時など、将来の目標がつかめなかった。心の中に確かなものがなく、全ては何となくという曖昧な状態にあった。これまで目標らしきものを立てて実行できたためしがない。就職先や結婚まで何となく決めてきたように思う。ただちょっとは何となくの中に、直感が働いていた気はする。その直感とは、おそらく大丈夫だろう(妻となる女性との相性なども含む)という枠のことだろうと思う。

ここで言っている「デミアン」の恐ろしい目標とは、自分の自然状態の直感だと思える。ぼくのような凡人が社会からはみ出ないようにと直感を使うのとは真逆のことだ。ここで真実の欲望が語られている。欲望とは社会からはみ出ることもある、恐ろしいものだ。

欲望をコントロールして自分を変え、思い通りの自分を作ることはできないものだろうか?その時、「ひとりでにぼくの中から出たがっているもの」の正体を見る必要がある。現在のぼくは、その正体は見えなくても少しは感じることはできる。今までできなかったことができそうな気がする、その予感の中にその正体の感じがある。