開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

読書三昧とは

かすかに虚しさを感じ始めている。午後から夕方にかけての時間は、時々軽い虚しさが訪れることがある。本が読めなくなるとやることがなくなり、手持ち無沙汰になる。今この瞬間の自分の心にあるものを見ようとすると、自分の一生を終えるまでに何かを残したいという漠然とした思いが湧いてきていることに気づく。そして今更何も残せないだろうという絶望が再び頭をもたげる。このような寂寥感を定年過ぎたぼくのような同輩はなんとか誤魔化そうとする。義理の姉夫婦は、同居の母親が他界し二人の子供が結婚して出て行ってから、広すぎる自宅に犬を飼うことにして「空いた」時間を埋めることにした。弟は定年後も保健所の所長として働いている。テニス仲間で無職組はゴルフか競馬に時間を使って、とにかく虚しさが入り込むのを防いでいる。ぼくは読書三昧にうまく持っていけない時があって、今日みたいな時間にはまり込むのだ。

先日古井由吉の「杳子」を読む。初めて読む作家だった。これまで親しんできたどの作家とも違っていた。強いていうなら「アサッテの人」の諏訪哲史に似ているかもしれない。諏訪哲史古井由吉に似ているというべきかもしれないが、ぼくが読んだ順番からするとそうなる。気が狂う寸前でなんとか日常の自分を保っている人の世界を描いている。健康な人だったら感じない空気や気配が豊富な表現力で言葉になっていると、文章を読むと感じられた。このような緻密な精神世界に生きていたら、普通に会社に行って毎日働いている経済の世界はあるいは小さく見えるかもしれない。道具的に頭を使うような、小さな領域にうまく限定されている、と感じられるかもしれない。文学の方が人間にとって経済より、広くて深いと思う。読書三昧とはその広くて深い存在の「闇」に浸り続けることかもしれない。

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