開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

本を読むこと

本を読むことは簡単にできる。文章を書いて本にすることはかなり難しいのに対して、本になったものを読むことは字が読める人であれば、誰でもすぐにできる。図書館で借りてくれば無料で読める。簡単にできることなのに、本を読む人はどんどん少なくなっているという。昨年、 NHKの朝ドラで「エール」をやっていてぼくはほとんど全ての回を視聴した。本を読むのと歌を聞くのを比較してみると、時間の共有性という観点からすると、後者の方が共有時間の密度は圧倒的に高いように思う。一人で聴く場合よりもみんなで聴いている方が、特にエールとしての歌の場合は多くの人を一つにするチカラを持っている。歌を聴くだけでなく、自分も歌ってさらに高い共感へ導かれる。

本を読む場合は、同じ本をみんなで読むということを実行しない限り、時間の共有性はないように思われる。朗読の場合は同時だが、普通同じ本でも読書は一定の期間を必要とする。だが共有性がないわけではない。歌の場合ほどシンプルではないが、読書によって得られる共有性は目には見えないが、長いスパンで見れば膨大で果てしない時間の共有ができているのではないだろうか?一つ例を挙げるだけで済むだろう。日本ばかりでなく世界に広げても最古の小説、「源氏物語」がある。読者数×読書時間×本の流通年数を考えると蓄積された時間は、それだけで何かを感じさせる価値がある。今「源氏物語」をあなたが読むとすると、めくるめくような時間体験をすることになるはずだ。既に現代語訳で、与謝野晶子谷崎潤一郎円地文子の他、田辺聖子瀬戸内寂聴橋本治角田光代など多くの作家がそれぞれの源氏を書いていて、全く紫式部と同じものを読んでいるわけではないが、一つの物語を共有していることになる。本を読むことによる読者の読書による共有空間には、いったい何があるのだろうか?文化の力には潜在的な相当な、人々を結びつけるチカラがあると思える。

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