開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

定年後の退屈とのたたかい

定年後無職で年金で生活する者は、日常的にどうしてもやらなければいけない事から解放されている。コロナ禍の一部の人の、仕事がない苦しさからは解放されている。だからやることがなくて暇だと言ってはいけないのだ。先ほどテレビで「ポツンと一軒家」という人気番組を見ていた。選んで見ていたのではなく、午後のコーヒータイムにたまたまテレビに映っていたに過ぎない。そこで目にする被取材者のお年寄りは、農作業か何かの用事をいつもやっていて、のんびりとはしているが暇な様子ではない。やることはちゃんとあって、1日を「従事」して終わる毎日を送っている。昨日ブログで生産性が上がれば、労働時間は短くならなければおかしいという問題について書いたが、今日は労働時間が短くなったら残った暇な時間に何をするか、という問題を考えてみたい。

そもそもスポーツなどのレジャーはもともと貴族がやっていた。ゴルフ、テニス、登山、ヨット、乗馬などは今ではやろうと思えばサラリーマンでもできる。大企業のサラリーマンの年収は、単純計算で中世の貴族の所得並みになっているらしい。だが大概の人はそこまでの年収はないこともあるが、労働という「奴隷」の習性から切り離されていないから、貴族のように遊べない。本当はもっと貴族から学んでも良さそうに思う。そこでぼくはバートランド・ラッセルという生粋の貴族の書いた「幸福論」を読もうと思っている。もう泉野図書館には予約を入れている。

「ポツンと一軒家」に出てくるお年寄りと、貴族の「暇」の使い方をみたが、暇で何もすることがないというサラリーマンの定年後の日常とはとにかく違っている。何が一番違うかといえば、年季が違うのだ。定年後数年では「暇」の年季が違うのだ。賃金奴隷だった身分から解放されたと言っても最近のことだ。奴隷のおかげで働く必要のない古代ギリシャの哲学者や、平安貴族の和歌を詠み、恋愛三昧の生活に馴染むにはもっと長い年月がかかりそうである。

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