開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

心の空虚は埋めなければならない

昨日のブログで中学生の時から心の空虚が育ち始めたと書いたが、心の空虚は自分の成長に繋がることが確認できてよかった。自分の成長にも歴史があり、全ては繋がっていることが今なら俯瞰的に見れるので理解が可能になる。心の空虚で今思い出すのはそれが一番深刻だった時期だ。前にもブログに書いているが、サラリーマン時代に社長から被った言葉による暴力がある。それは誰でも暴力と感じる類の言葉ではなく、サラリーマンだったら常識に属すると言われてもしょうがないものだが、悪意ある不意打ちを食うと思いがけない効果をあげるものなのだ。それは社長に報告しなければならない、という企業組織の原則なのだが、四六時中報告しろとなると異常な圧力になる。社長は軽く言ったのかもしれず、適切な時を見計らって報告せよと言ったつもりなのかもしれないが、受け取った方はいつが適切なのか分からないから四六時中となるのだった。このようなことは現在の心理学では何かの症例名がついているのかもしれない。当時のぼくはそのような知識はなく、自分はこの時代にあっても社員は社長一家の使用人にすぎないと自覚したのだった。社畜よりも使用人の方が実情に即していると思われた。定年退職している今でも、基本的に社員は使用人の身分だと思っている。それはさておき、その時できた心の空虚を唯識という仏教哲学で埋めることになった。唯識という知識体系が日本にあったことに気づかされたことは、自分の成長の歴史に最大の貢献をもたらせたと思っている。唯識源氏物語と共に世界に誇れる文化だと思う。文化というのは、現実の人間関係を凌駕する視点をもたらせてくれるのが良い。自分を含めてその時の社長をも凌駕できたことで、絶対的な自信に繋がるからだ。

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