今関心のあることが遠い昔になっている定年退職後の年金生活者が、書くことが楽しくなってきていて、昨日に引き続いて少年の頃の自分について書きたいと思う。これを読む人には分からないと思うが、書く方は若い自分に書く間だけは帰れるので楽しいのである。親の庇護のもとにあり、基本的に学校に行って勉強していればよく、高校は進学校だったので毎月試験があったが勉強がいやでしょうがないわけではなかった。そこそこ好きな女の子の取り合いのような場面になると悩んだりしていたが、病気や親の不和とか不慮の事故といった不幸には合わず、一人で突っ張ってはいたが極端に嫌われたり虐められたりしたわけでは無かった。ただ、高校に受かってすぐから始めた世界文学全集の読書は完全に嵌ってしまって、毎日本を手放すことは無かった。それは将来作家になる夢のもとに、才能に導かれて読むというのではなく、好奇心の赴くままの乱読であったためか、日常の現実と小説上の現実の区別が分からなくなりノイローゼ状態に陥るほどまでになった。あの頃を思い返してみると、鬱になって無気力になるというよりもメランコリーな状態で、全てがもの悲しい気分だったような気がする。例えば、萩原朔太郎の詩なんかを読むと無性に悲しかった。体全体が悲しみに沈んでしまうようで、怖い感じもしたくらいだった。クラスメイトにヴェルレーヌなどを読む文学少年がいて、彼から感化を受けて、ランボーとの間の微妙な感情にも悲しみを感じていた。このような言わば文学熱でのメランコリーは、仕事の過重負担やパワハラなどの原因とは違うので病気として治療するというよりも、精神的に強くなってコントロールできればいいのではと思われる。あの当時は思いつかなかったが、今では書くことによる治癒というものがある。何でもいいから、とにかく心にあるものを書き出してみればいいのだ。おそらく文芸という分野の芸術性には、書くことによって鍛えられる何かがあるような気がする。