今日今年最初の読書会が行われた。課題本は唯川恵の「淳子のてっぺん」だ。唯川恵は軽くて読まないという古参メンバー二人がいたが、この本は読んで高評価をしていた。ただその評価も主人公の田部井淳子モデルの淳子の人間性や夫との夫婦愛の素晴らしさに対してであって、小説そのものの出来を評価するものではなかった。小説としての出来も決して悪いというのでなく、むしろ一気に読んだという人が3人いて、長編を感じさせない書きっぷりで成功していると思う。物足りないのではなく感動もする。なのに純文学ではない。あえて言えば芸術的な味わいは感じられない。芸術的な感受とは、ほろ苦さとか切なさとか哀愁とか、どうしようもない不条理に対する怒りや諦観とか、魂の底からの叫びなどである。「淳子のてっぺん」には挑戦があり、登山での不慮の死はあっても怒りに結びつかず、成功へのあらゆる判断や行動には一つ一つに意味がある。つまり最終的にはうまく行くので、その世界は教育的で健全なものだ。その健全さが逆に芸術からは遠ざかるのだろうか?多分うまく行ってはいけないのだ、純文学という範疇では。うまく行ってしまったら、文学の方まで普通は向かわないのかもしれない。一度や二度の挫折など当たり前で、挑戦して一歩でも前に進むのが淳子の人生で、それは登山という世界に出会って得られた幸福である。だとしたら、純文学によって達成される幸福のカタチはないのだろうか?小説という言語芸術によってしか到達できない「幸福」というものがあるのではないだろうか?そういう領域に敢えて向かうのが、純文学なのかもしれない。