開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

書くことと話すこと

ぼくの場合、書くことはほとんど自分との応答だった。自分に問いかけ、答えを導き出す思考過程を再現することだった。話すことになると書くことよりも、使用する言葉が会話形式に閉じ込められるため制限されるように思われる。話す場が公共的に設定される場合では、より多くの人に通じるような言葉と話し方をするように求められる。今度地元の野々市市の読書グループの総会があり、20数名の会の代表にならなくてはならなくなり、何か話す必要が生まれた。ちょっと挨拶すればその場は収まるのだが、「よろしくお願いします」でその場を何の感興もなく流してしまうのは、何か物足りない感じがする。そういう場では何か意義のようなことをいう必要があると、生真面目な性格のぼくは考えてしまう。読書会の意義って?ぼくの答えは、自分の考えを話すのと他人の考えを聞く練習をする場であるというものだ。要するに小規模の討論をする、ということだ。その討論は、読んだ本の内容を巡ってテーマを見出し、それをきっかけにして自分の意見を言うことになる。日本人は自分の意見を持って討論に参加するという機会に恵まれていない。ところが欧米では子供の頃から学校の授業の中に組み入れられているらしい。I think that 、、、、because、、、となる。ある程度共通の発話形式がある。ところが日本人だとそれぞれその人の発話形式になる。自分の感じたことをダラダラ話して、ほとんど討論に発展しない。なぜそう感じたかを、説明する人はほとんどいないからだと思える。そもそも討論しようという気がないのかもしれない。討論して自分の考えが否定されると面白くない、と感じる人が多いような気がする。でも逆に同じ感じ方をする人が現れると、無性に嬉しくなったりするということもある。

コミュニケーションを心から楽しむという時間と場所が、読書会であり、参加者それぞれがその場をみんなで実現し共有しようとするトレーニングだと思えられたら、それは至福の時間になるはずだ。以上、読書会の意義について考えてみました。

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