開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

こころからの幸福とは何か?

昨日北陸では珍しくいい天気だった。雲が太陽を遮る時間はあったが長くは続かなかった。最高気温は2月なのに14度まで上がった。こんな恩寵のような日に、テニスができる仲間がいることが最高の幸せと思わなければならない。でも最高の幸せというよりも、普通のことに思えてしまうのが正直なところだ。何と健康な状態は欲張りで、罰当たりなことだろうか?ぼくの妻も一緒にできていることも幸せを感じさせることの一つであると思う。でもこんなことを書くのは自慢になって人様に見せるものではない、と思われる。自慢しようと思って書き出したわけではなかった。

定年後はよくボランティアで幸せになる、ということが言われる。健康だったら人様のために働きなさい、という世間的な圧力が感じられる。昨日テニスの後、Youtubeで定年後の幸せなお年寄りを紹介する番組を見ていた。そのお婆ちゃんは定年で会社をやめて孤独になって少し悩まれたらしい。ボランティアを募集する自治体の窓口で、簡単な作業的な「お仕事」を依頼されて働くのだが、動画の場面では福祉施設の花壇に花を植える「お仕事」だった。幸せそうに動画は撮られていたが、ぼくには幸せそうには見えなかった。そのおばあちゃんが心から楽しんでいるようには感じられなかった。それは契約主から与えられた「作業」だった。ボランティアというのは本来自主性に基づくものであるはずだ。ぼくは暇なお年寄りを当てにして、定年退職者の「活用」などというお役所のセンスが気に入らない。

ではどのようなボランテイアが望ましいのか?依頼する側と依頼される側の関係性がおかしいのだ。ボランティアが自主的に団体を作って、そこへ困っている色々な人や施設などがお願いに行くという関係性がいいのではないかと思う。シルバー人材センターという機関があるのは知っているが、詳しいことはわからないがお金をとって運営するという仕組み自体が、本来のボランティアの精神と食い違っているのではないのだろうか?それは、それに関わる全ての人が幸福感を心から味わう仕組みでなければならないと思う。いや、そもそも個人の幸福とは何かを原理的に考える哲学がなければ、実現しようもないことのように思える。まず必要なのは哲学ではないだろうか、、、

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