ブログを書いている自分に会いたくなった。何となく気分が沈んでいるのは、江藤淳のフォニイ論というのを読んだからだ。割と好意的に読んでいた加賀乙彦の小説をフォニイとケチをつけられた。フォニイとは「空っぽでみせかけだけの、インチキの、もっともらしい」という意味らしいが、そのいずれとも微妙に違って、要するにリアルさが感じられないことを指摘している。嫌なことに確かにそう思わせるところをぼくも感じてしまった。何という一言だろう。的を射るような確実に相手を殺す言葉だ。このリアルさを感じ取る読解力は、小林秀雄譲りだと思う。加賀乙彦その人と作品である小説世界との距離の取り方が凡庸で、話を運ぶ推進力の精密さが加賀乙彦その人から出ていない感じがぼくもしたのだ。もちろん大批評家の感じ取るリアルさと、ぼくの感じ取るリアルさに隔たりはあるだろうが、通じるものがなければぼくが落ち込むはずはないだろう。ぼくが読んでいたのは「湿原」という作品で、大佛次郎賞をとっている。1968年の新宿騒乱が扱われていて、東大全共闘活動家が主人公の周りに登場するのだが、紋切り型に描かれ、おそらく当事者だった人が読めば笑ってしまう類のものだろうと思われた。どうして加賀乙彦は1968年の新宿騒乱を小説に描きこんだのか、単なる事件としてしか捉えていないと感じられる。大江健三郎の「洪水はわが魂に及び」で描かれる過激派とは大違いである。「湿原」は(上)の半分ぐらいで先を読めなくなった。多分もう加賀乙彦の小説は読まないだろう。それほど批評家の言葉はぼくにはいわば暴力的に効いた。ちなみに江藤淳は、全共闘は革命ごっこ、三島は軍隊ごっこをやっただけと言った。しかし、それを言うなら江藤淳は本当の市街戦を知っているのだろうか?