穏やかな午後の日常をリビングのソファーに寝そべって、何もない今を楽しんでいた。何もしなくていいし、何かやることがあればすればいいという、余裕の心境にあることに気づいた。もう何年もその感じを失っていたように思う。全く久しぶりにその感じに触れた時に懐かしい気がしたものだ。この前から源氏物語を読むようにしている。色々な現代語訳が出ていて、ぼくは谷崎潤一郎訳の源氏物語を買って夕顔の途中まで読んだ。現代語訳になっていても読むのに苦労する。そこでしばしばYoutubeの源氏物語セミナーや与謝野晶子訳の朗読のお世話になる。与謝野晶子訳の方が谷崎訳よりも分かりやすい。光源氏という男は桐壺帝という天皇の子でありながら色好みで、母桐壺と3歳で死別しているので生涯母の面影を追うことになる。昨日、三帖の空蝉のところを読んでいまいち分からなかったところを、与謝野晶子訳の朗読を聞いてよく分かった。夜、空蝉の寝室に忍び寄って直前に気づかれ逃げられた後に、源氏が間違って別の若い娘に近づいた時に「間違った」とは言わずに、その娘にも気を遣って恥をかかせなかったくだりがある。その身分の低い娘にも忍びの恋の相手として認めるのだった。これには感心した。当然騒がれては困る状況ではあるが、そんな状況でも「筋」を通すのだ。変なところに感心するような古典の読み方なのだが、それと最初に述べた余裕の心境とはどこかで結びついているような気がする。光源氏の生き方を知ってぼくの中にその心境が生まれた、という因果だと思える。