開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

微妙な変化を作り出す

自分の行動を変えるには意識を変えればいい。自分を作っているのはほとんど意識なので、意識を変えることに注意を向けて自分をコントロールするわけだ。ぼくは本を読むことが意識を作ってきたと思っている。もとより環境が人間を作るのだけれど、環境を一定に固定すると意識の方に重点が移る。だから本を読むことの中で、何を読むかは十分注意を払ってきた。つまり自分の心の中に入れる「情報」は食物と同じように考えてきた。ところが例外が生じることがある。何かの義務で自分の意に反して、義務から読む本も出てきてしまった。地元の読書会のメンバーでもあるので、メンバーが選んだ本は強制的に読むことになる。最近では唯川恵だ。この人の小説を三冊読んで流石に自分の意識が変わり、自分の趣味というか本の選択枠というものが一部崩れることになった。唯川恵を自分の趣味に入れるのを認めるのなら、三田誠広を認めてもいいじゃないかとなってきて、純文学に限ったり、純文学の中でもフォニイだと言って純粋さを保とうとする「倫理観」も崩れてきている。ここ数日で、柴崎友香「春の庭」と岡映里「境界の町で」そして三田誠広「早稲田1968」と立て続けて読んできた。その時の興味のおもむくままの乱読だ。そして乱読の味を覚えると、英語の勉強がどうでもよくなってきて何らかの形で保っていた英語情報にも接触しなくなった。勉強するという態度に怠けが生じてきた。乱読できるのは久しぶりの充実感があり、その他のことはどうでもよくなるのだ。柴崎友香と岡映里は他人のブログを読んで知った若い作家なのだが、自分が現代に生きている感じを味わわせてくれた。作家だから当たり前であるが彼女たちの個性は今の時代のもので、自分の全霊をかけて書いている情熱にしばしほだされた。三田誠広「早稲田1968」についてはぼく自身の「青春」も関係しているので、改めて読んで考えたことを書きたい。