開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

何のために自分は生きているか

67歳の定年退職者が、何のために生きているかと自分に問うている。既に自分の幸福のためや家族の幸福のためと思っていない。だったら社会や国の公正な運営のために、何か自分の力を活かしたいということだろうか?青臭いどこか偽善的な匂いがすると言われようが、この歳になってもそう考えるのだから仕方がない。かといって何か具体的なボランティアのようなことをする気はない。そんなことを求められているとも感じていない。高校の時からの友人の一人は、アムネスティの活動をずっとしている。大学時代の先輩の一人は今も学生運動の延長で、ある政治党派のもとで「闘って」いる。自分をその社会的に意味のある活動に尽くそうとすることは彼らには解決済みのことで、もう自分に問うことはないのだろう。ぼくは、そういう意味の活動は自分の生きることに通じていない気がする。今の自分は仕事もしていない。お金を稼ぐという意味の仕事だけではなく、社会的に有用な価値を生み出す仕事もしていない。仕事は何もしていないが、何もしたくないかといえば向上心だけはある。今から能力が落ちぶれていくだけで、老いて行く自分を受け入れるだけが残された人生、というのは断固として御免である。好奇心だけはある。同じようなことを繰り返す自分を変えたいとも思う。

しかし、自分を変えたいと意欲するようになったのはいつ頃からだろうか。そうそう最近のような気がする。日頃接している情報に、明らかに真実を隠している意図を知ってしまったことが多分影響していると思う。ニーチェを持ち出すまでもなく、世界は力によって動いている。正義や真実が力となるには、多数の人間が覚醒しなければならない。これまでぼくが接してきて受け入れようとしてきた「思想」は、願いのような曖昧さがあったと思える。見たくないことや面倒なことを避けてきたように思う。あまりに複雑に見ようとしてきたかもしれない。真実はシンプルだ。自分は真実に直面して、逃げずにタフに生きたい。何のためか、真実に生きるためだ。