開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

便利さは墓穴を掘らないか?

何らかの制限が必要と感じ始めている。現代社会はネット環境やコンビニなど便利になって、簡単に情報が手に入ったり簡単に物が買える、ということに注意を向けたいと思う。例えが変かもしれないが、テニスでスキルの知識は簡単に手に入るが、そのスキルを身につけるには繰り返して自分の体に覚え込ませる必要がある。それは実際やってみると簡単ではない。哲学や歴史や文学や思想という人文系の知識も、分かりやすい入門が用意されていて、解説の本や動画がすぐに手に入る。高価な本も図書館で簡単に手に入る。便利で何でも手に入ることは一見いいことのように思える。しかし、これも読むという行為は時間がかかって、簡単に済むわけではない。1回読んでも分からないことも、人文系の学問には多い。小説の場合、自分の読解力に応じた本が市場で有り余るほど提供されているので、「自分に合ったもの」という基準で読んでいると墓穴を掘ることになるかもしれない。なぜかというと、他者に出会わないからだ。他者に出会わないと実は自分もよく分からないはずだ。

ぼくはこれまで自分の心の声というものに信を置いてきた。何か違う感じがしたら、それはそれ以上自分に近づけないようにしてきた。反対に、これは自分と似ていてちょうど同じことを感じていたと思えた小説や作家は、どんどん取り入れようと読んできた。簡単に本が手に入るから、自分の経験や感性を中心に擬似的な体験や考えを積んで行くことになる。そうやって自分を「人格的に」作って行くことをよしとしてきた。だがそれはあくまで擬似的で、実際体験して体に覚え込ませたことではない。そして現代ではあまりに擬似的なものに、取り囲まれ過ぎている。ほとんど自分もその環境に同一化していると思われる。だが、それでいいのだろうか?どこかで情報を遮断して、便利さの環境を意識的に壊してコントロールする必要があると思う。