以前のブログで、山本哲士氏の吉本隆明「日本経済を考える」講演に対する解説を読んで、ぼく自身の感想を書いていた。それは生活者にとっては経済から何を知ればいいのかという問題だった。今ある経済学は支配者の学であり、それを生活者の学にするには、支配を逆支配に転換し反権力を超えて非権力の経済理論を打ち立てる必要があるとされた。また生活者といっても一般大衆ではなく、「わたし」という具体的な立場から語ることが求められた。再度、2.3.円高ドル安:グローバル経済における企業と生活者についての山本哲士氏の批判的解説の全文を掲載して、ぼくの感想を述べたい。
円高ドル安は、労働者賃金の上昇、自分の暮らしとどうかかわっているのか、そこが大事で、円高ドル安という事態そのものではない。また、ほんの13%の1部企業が直接かかわっていることで、一般大衆の現実にはかかわりないという。
日本の賃金上昇は、他の先進国にくらべて低い、労働者は耐えるという徳が日本人にはある、これは生活向上に円高が関与していない実例だ。つまり、生活大衆にまで円高は還元されていないということだ。
こういう考え方にはなにが欠けているのか?
円高は、生活者としてどこにかかわっているかというと、海外で暮らしたとき、海外旅行したとき、わたしたちには直接にかかわってみえてくる。1ドルが100円になると、200円のときの半額でモノが買える、暮らせる。わたしのように海外生活を多くしている者には、直接の利益になってくる。
他方、輸出企業にとっては、1万ドル儲けたとすると、その利益は半分に減ってしまう。
こういう、逆転が、実際には、ナショナル経済とグローバル経済との関係でおきている。前者が自分の暮らしのことで、後者は自分の暮らしに関係ない、といえるのだろうか? 日本国内で暮らしている圧倒的多数にはかかわりない、といえるのだろうか?
日本航空が、ブラジルで稼いだ利益を日本へもってくることができない、ということが起きている。これは、いわば低開発国で稼いだはなしだ。USAで稼いだこととどうちがうのか?
ポイントは、海外進出企業のその経営の仕方が、問題であって、その利益を、日本社会へ還元させていくという様式を日本がつくれないで、海外国の法的規制に従属しかしていない、この経営力のなさが問題なのだ。生活者自体に問題があるのではない、グローバル経済経営がなされえていない、戦略がない、ここが問題なのだ。
国家がグローバル・ファイナンスができていない。つまり、国際利益を日本社会へ還元させるという戦略をもちえていない、また、場所企業が輸出している、その場所経済への利益還元をなしえていない、こういうことが「指導の指導」として、根本的な問題なのだ。1部経済企業の収支問題にしかなっていないことが問題なのだ。ただ、輸出して儲けるということしかできていない。
さらに、日本が、海外投資をなしえていない、小金持ちがいるだけで、総体として海外投資経済活動ができていない、ただ少額の株の売り買いしかしえていない、ビジネスを育てるということがなされていない、これが問題なのだ。生活者として消費投資しかできていない、生産・創造投資がなされていない。
円高は、大企業の下請け会社へしわ寄せが自然過程的にくるだけの無策が問題なのだ。ここは、一般大衆の生活にもろにひびいてきている。
グローバル経済は、わたしたちの食品をみてみればいい、海外製品がどれほど卓上にならんでいるかみてみればいい、直接の場になってしまっている。原料までいれれば、深刻な事態にまでなっている、そこを見ないでいるわけにはいくまい。米まで、忍び込んでいる。食糧自給がなされえていない。車のガソリンでさえそうだ。
グローバル経済の観点が吉本には欠落しているが、これは生活者に自覚がないほど、実際には忍び込んでいる、入り込んでいる。
生活者からみて、国民経済とグローバル経済との関係が、既存の在り方においては利益となっていない、こういう組み立てが問題なのだ。
ここは、場所経済がグローバル経済との直接性を構築せねばならないという課題としてあることで、ナショナル経済がそれをサポートするという体制になっていかないと成立しない。地銀がまったく機能しえていない、中央銀行の従属代行ファイナンスしかできていないからこうなっている。
経済とは、本質的に世界経済でしかない。この世界経済を、産業的な生産様式でやっているだけだからだめなのだ。
グローバル経済が、日々の生活にいかに関与しているか、その現実を認識していくことは必要である。とくに、衣食住において、それはもはや間接的ではない。
生活者が世界に目を閉じていることはもはやできない。世界に目をむけることが、特権階級だなんぞという考え方がもうだめだ。生活者は、国家よりも世界をみていかねばならない、それは、自らの場所経済=地球経済を生活者の生活環境として自覚的に構築していかないとだめだ。
これは、まさに吉本のいう円高ドル安という現象だけのはなしではない、ということなのだが、それをみないということではなく、世界総体をみなければならないという生活者自身の問題であると、開いていかねばならないのだ。それには、労働者生活という領域ではなく、生活者、場所住民=地球住民という観点をいれなければならない。世界経済はどこか天空にある問題ではない、自分の足元の環境の問題である。
ここでは、生活者にとっての経済を語る一例として、円高ドル安:グローバル経済における企業と生活者についてが語られている。以下ぼくなりに要約すると、、、
円高ドル安は、労働者の賃金上昇に還元されないのが問題で、日本航空が、ブラジルで稼いだ利益を日本へもってくることができないように、海外進出企業の経営力のなさが問題とされなければならない。労働者の方が被支配を逆転し、理論上はグローバル経済経営の戦略を労働者自らが立て、経営者を指導できるくらいでなければならない。また、国家のグローバル・ファイナンスができていず、国際利益を日本社会へ還元させるという戦略をもちえていないのに対して、国が生活者視点で海外投資をしビジネスを育てなければならない。生活者として消費投資しかできていない、生産・創造投資がなされていない現状からの脱出が構想される必要がある。そもそも、経済とは、本質的に世界経済でしかないから、自らの場所経済=地球経済を生活者の生活環境として自覚的に構築していかないとだめだ。生活者自身が、自分の足元の環境の問題をグローバルに解決する経済学を持たなければならない。
以上、今までの国家観からすると問題もでてくるのかも知れないが、自分の問題として経済を語る視野は大きく開かれる感じがした。自分の足元から厳密に経済を哲学する事に、あなたは希望が湧いてくる気はしないだろうか?