死の予感といっても自分の死ではない。ここ半年の間に、二人の知人の死に触れることになった。家族とか親類の死にはこれまでも何度か立ち会っている。この二人というのは趣味の仲間という関係で、必ずしも友人というほどの付き合いがあったわけではない。一人はテニス仲間で71歳の男性で、他の一人は読書会仲間の80歳の女性だ。お二人とも体調がすぐれないことが度々あって、入退院を繰り返されていた。テニス仲間の彼は独身で独り住まいだった。自炊がめんどくさいみたいで食生活が偏りがちなのを仲間で気にかけてはいた。直接の死因は脳出血で倒れて気づくのが遅かったのだが、腎臓もかなり悪く病院に運ばれた時には手術しようがないくらいの状態だったらしい。死は突然にやってきたが、予兆のようなものがあり、ひょっとすると危ないのではないかという予感を打ち消せない感じがあった。体調が全快する事はなくだんだん悪い方に進んで行くような感じを受けていて、仲間では心配はしていたが思い切ってアドバイスすることもしなかった。食生活の改善なら賄い付きの老人ホームに移るという手もあった。お金には不自由するほどではなかったのだから、本気で自分の健康な生活を考えればできないことではなかったと思う。自分の老後という現実にどう対処していくかを、我々のような年代の者はそれぞれ自分のプランを持つ必要がある。先の見通しを明るくしておくことが必要なのだ。
読書会仲間の80歳の女性の方は、ご主人は健在で息子夫婦も同居ではないが近くに住んでいたらしい。癌で闘病生活はかなり長かったらしいが、それを仲間のFさん以外には口外せず、心配をかけることがないように気丈に振る舞っておられた。本を読むことが好きで40年以上も読書会を続けてこられていた。先月の例会を最後にして、仲間の皆さんに「最後の」お別れの挨拶をされたかったのが、急激に体調を崩されて果たされなかった。ぼくに例会を休む電話をされた時も苦しそうだった。メールでは過去を振り返って、最初に読書会を立ち上げたKさんや会長を引き受けたぼくのことにも感謝すると書かれてあったのが、何だか別れの感じがして、ひょっとして相当お悪いのかもしれないと一瞬思ったくらいだった。今となっては、あの時の予感のようなものは当たっていたことになるが、その時の彼女は自分の死を覚悟していたのかもしれないと思うと重いものを感じる。家族葬で知らされなかったので読書会の仲間は葬儀に出ることがなく、お別れの気持ちをどう果たせばいいか思案している。