開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

ぼくの発見した方法について

どんな風に書いたらいいか、ここでは思い悩まないことにしよう。自分だけのことだから誰にも迷惑はかけないはずだ。テニスをしたり、本好きの仲間とのおしゃべりだったり、ちょっとした楽しみのような恋心を秘密にしたりなどといった、日常の世界のことはどうでもいいことにする。そう宣言することにする。自分の人生を楽しむために、ぼくだけの方法でこれから生きていきたいと思う。ありのままの現実って、つまらないというような不遜なことは言わない。何と言ってもありのままの現実が一番大事である。でもその世界に住み続けるのは、ぼくには寂しすぎることに気がついた。どうしても孤独感が付きまとってしまう。孤独から逃れるために、ぼくなりの方法で人生を楽しむことにする。現実はありのままのそこにある日常なのだが、ありのままには見ないことにする。ひょっとして埴谷雄高の「自同律の不快」というのは、現実をありのままに見ないことかもしれない。ランボーの言葉による錯乱も、現実をありのままに見ないことかもしれない。それはともかく、ぼくはぼくの方法を手に持っている。

例えば、東京と地方の文化的格差のような現実に、ぼくはこれまで何度もインフェリオリティを感じてきた。正直なところ認めざるを得ないからだ。でも、もうそんな現実は見なければいいのだ。ぼくだけに関しては、ぼくの人生で楽しめる方法を取ればいいだけのことに今更ながら気づいたということだ。要はランボーのように、言葉によってそれを命名すればいいのだ。山本哲士は、自分一人という個人の存在が多数を原理とする政治や思想より強いのだ、と見做した。その十全の自由の領域を生きればいいのだ。

少し声高に話し過ぎてしまったようだ。黙っていればいいことだ。ここに書いてしまったからこれを読んだ人とは、秘密を共有することになるかもしれないが、もとより他人のことは絶対的に分からない事柄だ。とにかく、現実をありのままに見ないことに自分の責任を置いて行こうと思う。