開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

憲法記念日がすぎて考えたこと

5月3日が憲法記念日だった。憲法について何か書くことは大きな問題すぎて、どう書いていいか分からなかった。憲法は権力を縛るものという定義があるのを知ったのは、2015年の安保法制をめぐる政治的高揚があった時期で、それまでは知る機会がなかった。ぼくの高校の倫理社会の授業では取り扱わなかったと思う。憲法は国民が守る必要はなく、総理大臣を始めあらゆる行政機関に関わる公務員が守るものという基本認識もその時までなかった。この立憲主義という考えは、イギリスのマグナカルタに源流があるらしい。らしいというのはぼくの知識が完全ではないからだ。明治憲法マグナカルタを知らずに作られたのかなどという疑問については、ほとんどわからないままになっている。とにかく憲法は国民のものだ、という認識がぼくにはあるのだが、ぼくの周りにはそのような認識が普通になっていないようだ。

戦争は誰もが反対することだとよく言われていたが、戦争放棄が謳われている憲法は改正すべきだと言う。自衛の戦争は許されていて、自衛と侵略の区別は当事国の判断ということらしい。それでは戦争するために憲法を改正する、ととらえられても仕方がないと思う。ぼくは戦争放棄は原爆を二度も落とされて、国土が消滅するくらいの衝撃を受けた国民の大多数が望んだこと(少なくとも直感レベルで)と思っている。当時は新型爆弾という認識しかなかったことが、広島へ特攻隊に志願しに行って被曝し奇跡的に助かったぼくの叔父から聞いていた。今だったら、核爆弾を落とすぞと威嚇されたら、自衛のために戦争するという選択はどの国も取らないだろう。当時の日本は核の恐ろしさをイメージできなかった。(それは歴史上初めて核爆発の効果の実験対象にされたから)

憲法をとにかく守れば戦争は防げるとぼくも思わないが、戦争で日本を叩かなければならないと当時のトルーマン大統領のような考えが二度と生まれないようにするには何が必要かは、徹底的に考える必要があると思う。