何かを書きたい気分になっている。この気分という情動の存在論を確かハイデッガーが「存在と時間」の中で書いていた気がするが、確かめるのも億劫なので自分の心に聴いてみることにする。気分には判断にまで至らない曖昧性があるが、何かのきっかけにはなっている。心が彷徨っている状態で、しかし何かに繋がって「たゆたって」いる。まずその繋がっている何かを明らかにしてみよう。ハイデッガーなら、何かが開示しようとしていると考えるかもしれない。これまでにない新しいものが、この自分の中から生まれようとしている状態が、気分という存在なのではなかろうか?
自分が少し新しく細胞が更新されるように、最近行動した結果の、環境からの反応のようなものを突き返してきている予感がする。少しだけ勇気を持って隣人に声をかけてみたり、先輩が担っていた会長職を引き継いだり、市の主催するある文化イベントに協力できたり、という行動が好反応を引き寄せたのかもしれないと思える。今までの自分の周囲との関係性が静止状態から動き出している感じを受ける。これは地味なことではあるが、大きなことに発展しそうな土壌を作り出しているかもしれない。要は「応答」なのだ。自分にできることで、周囲から訪れようとしていることに「応答」すること。それは自分が最も大切にしている「こころの故郷」づくりを実践している、と思える。