開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

読者とは何か?

読書とは何かではなく、読者について考えてみようと思った。読書については何らかの方法論があって、読解力の向上や深化が得られるように論じられると思う。読者は千差万別だ。しかし読者は作家と共にあるという関係は切っても切れないものだろう。作家は読者に読まれることによって作家であり続けられる。千差万別の読者層を持つ作家ほど偉大かもしれない。多くの人間を魅了する力はそれだけで偉大でありうるのではないだろうか?

読者は作家を潜在的に左右する力をもっているのではないだろうか?おそらく作品の面白さは読者によって読まれることがなければ実現しない。ウケねらいをするようでは読者に見透かされるから、読者より数倍高みに立てていたり、深みに居続けていたりできなければならないだろう。ぼくが改めて考えてみたいのは読者という立場についてだ。読者は単なる人ではない、単なる男や女ではない。単なる大人や子供や老人ではない。単なる国民や市民や庶民や大衆ではない。一人一人固有の、具体的な生活と職業を持った人たちだ。

でも読者は本を読める人々だ。日本は識字率がほぼ100パーセントだが、世界には100パーセントに満たない国が山ほどあるだろう。世界には読者という在り方が特殊でありうる国がかなりあるかもしれない。ぼくが読者である場所は、我が国の平均読者層があるとしてどれだけの位置にあるのだろうか?おそらくそれは月に何冊ぐらいの本を読むかで計られるのだろう。

今度、読者の中のおそらく最上位にいる研究者の先生に、文学講座のお願いをすることになっている。そのことがここ数日ぼくの心を占め、意外にも悩み続けることになった。今日自分も読者の一人として研究者とは言えないまでも、作家と作品の鑑賞と読み取りに参加しているのだと思えることで、何かテーマを設定させていただく権利があると思えた。

ちなみに中公新書「読む力」のまえがきに松岡正剛氏が、「読む力」には三つの「A」が大事だと指摘されていた。

・アナロジー:その本から何を類推できるのか、何を連想したか

アフォーダンス:その本によって何が制約されたのか、攻め込まれたのか

・アプダクション:その本によって何を前方に投げられるのか、どんな仮説が作られるのか

ここまで読めれば読者は作家(作者)と対等になれるだろう。あるいは凌駕しているかもしれない。