開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

謳うスキルと物語るスキルと

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和歌や俳句などの「謳うスキル」と小説や評伝などの「物語るスキル」は、文化を発信し蓄積する上で欠かせないものだ。聞いたり読んだりする受容する力ではなく、止むに止まれない発情の、吐露の形式だ。ぼくにはこれが足りない。地元の公民館で読書会に参加してから輪が広がり出して、地元の先生にも講演等を聴く機会があり啓発された。現在ではほとんど観光でしか地方の伝統芸能や寺社仏閣や産物などに接する機会がなくなっているが、和歌や物語を通して地方を探訪できるのは一部の人たちに限られている。先日、元石川県立図書館の館長Mさんの講演を聴いて、万葉集から能登の歌をたどって大伴家持能登巡行の様子をうかがい知ることになった。その頃の能登はヤマト朝廷にとって、渤海などの対大陸と国内の対蝦夷地の重要な拠点としていわば戦略的な要所であって、大伴家持は朝廷から派遣されて越中国(当時は富山と能登を合わせた領域だった)の国司となっている。31歳の時の国司としての視察のことを学術的な推察の基に物語にされて発表された。学者ではないので自由な想像力が生きていて、当時の生きた姿を想像する楽しさを味わった。漁業はもとより酒造、製塩、林業、造船に製鉄までかなりな規模で繁盛していたことが、視察からうかがえた。アワビなどの魚介類や酒は献上されていたり、豊富な能登島の原生林と良好な港から造船業が栄え専門の職人衆がいた。また炭焼きで高爪山(時代が下ると「能登富士」の愛称で呼ばれた)で採れた鉄を製鉄する技術もあった。人々も元気で独立心もあり、必ずしも朝廷に媚びへつらうことはなかったらしい。このようなことを伺い知ると、当時の方が東京よりは都からも近く能登は賑わっていたと感じた。現在は人口減が止まらず過疎化が進んでいる現実があり、寂しい気がするが、歴史を知ると本来の能登の姿を知って誇りに思えてくる。誇りというものが文化によって生まれるのがいい。