開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

知ると分かるとの違い

日々スマホやパソコンに接続して暮らしていて我々は情報に取り囲まれている。無料の情報や公共性のある情報や特定の人にしか必要のない情報がある。とにかく情報で溢れていて、情報漬けになって不必要に情報に晒されているのが普通の状況になっている。だからほとんどの人は適当に情報を遮断していると思う。

こんなどうでもいいような書き出しになってしまったが、今日このブログで書きたかったのは、情報は知るために必要だが知るだけでは何にも分からない、ということをぼくの経験から述べてみたかったのである。知っていることに価値があると多分あなたは思っていると思う。テレビで毎日のようにクイズ番組があって、どれだけ知識があるか競っている。クイズに出てくる知識なんてどうでもいいような、その時だけの虚しいものに思うのだがどうでしょう?

最近ある事情から、水橋文美江の脚本のノベライズを読んでいる。水橋文美江さんは金沢市出身ということから読む必要ができて、ぼくもせっかくだからこれを縁に集中して彼女の作品を読んでみようとしているわけだ。彼女の脚本はテレビドラマで演じられることが前提にされ、当然舞台のものとは異なる。もちろん小説とは違うし、文学かどうかも微妙なところだ。NHKの朝ドラ「スカーレット」のノベライズをまず読んでみた。今日下巻の3分の1辺りまで読んで、もうこれ以上読めないと思ったのである。あることに気づいて、そんなことは当たり前でなんで読む前に気づかなかったのかと思うようなことだった。それは、テレビではリアリティにバイアスがかかるということだった。テレビは視聴率に縛られているので、あくまで現在の最大公約数的な面白さの枠にはまっている必要がある。

小説とて同じという見方もあるだろう。しかし小説の面白さはエンターテイメントの面白さではない。面白さの射程が深く、長く、広い。ある場合には千年生き続ける。ぼくはテレビドラマの脚本というものをこれまで読んだ経験がなかった、ただそれだけのことかもしれない。脚本に対する浅い知識はあった。でもそんな知識はほとんど役に立たない。本の場合は、とにかく読んでみなければ分かるという体験はできない。何事もそうかもしれないし、認識論という、哲学でも扱っているように、分かるは知ることの後に訪れる(つまり、ほとんどのことは分からないまま浅い知識で行動することになる)のだ。あるいは永遠に訪れないことも人生にはあると思われる。

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