開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

エッセイか、小説か

先日図書館から借りた、滝口悠生の「長い一日」を読み終え、今、柳美里の「南相馬メドレー」を半分まで読んでいる。「長い一日」はエッセイのような小説で、「南相馬メドレー」は純然たるエッセイである。前者は誰かのブログに載っていて、おそらく何が書かれてあるかより書き方に興味を惹かれて選んだ。後者は書かれてあるだろう事実に興味を惹かれて選んだ。つまり、あの南相馬の人々と柳美里の交流そのものに関心があった。続けてこの2書を読んで(後の方は半分まででやめてしまうかもしれない)、自分が読書の何を優先するかが分かった。自分との同一性だった。南相馬が意味する3.11や原発という現実はぼくには他者性の壁があった。「黒い雨」を読んだ時は被爆者との同一性を最後には築くことができた。「南相馬メドレー」はエッセイで「黒い雨」は小説だったからだろうか?

滝口悠生の「長い一日」に書かれてる内容は、文芸の昔の分類からしたら私小説になる。ところが「私」の枠を軽々と超え、流れる小説内時間も一定ではなく自由が漲っていた。登場人物ごとに地の文の話者がかわり、会話文は全て間接話法で書かれる。主人公の地の文では、「おじさん」「おばさん」だが、主人公の妻の地の文では、「おじちゃん」「おばちゃん」になる。妻は一般名詞のように、主人公の友人の地の文で「妻」と出てきたりする。この文体はおそらく滝口悠生の生き方にも通じているのだろう。ぼくが「密かに」目指している、「小説的な生き方」に何となく似たようなものを感じた。

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