ぼくのブログは自分のための気づきの記録なので、第三者が読んで分かるようには書いていない。書こうと思うと億劫になって書く気力が失せてしまう。誰かを救いたいとか、自分を認めてもらいたいとかという動機がない。敢えて言うとしたら、気づいたことを自分だけに留めておくのがどうしてもできなくなる心の疼きみたいなものはある。だったらやはり自分の気づきを認めて欲しいという事になるのだろうか。でも認められなくても仕方がない、という諦めはある。
一つは読書会で読んだ、永井路子の「薄闇の桜」に出てきた、主人公「いと」の誘拐を救った「荻水先生」の言葉に出会ったことにある。「人生は死ぬまでの暇つぶし」だというのだ。暇つぶしは退屈しのぎのような一時しのぎではなく、人生の全ては暇だとしてそれでも手を抜かず丁寧に手仕事をし、一日を満足して過ごすという態度なのだ。この態度は目標を作らず、目の前の事に全力で取り組む生き方に通じる。どっち道人生は儘ならぬものであり、自分の力が及ばないところで自分の生き方が左右されるものであり、運がいい時もあり悪い時もある。だから自分の力が確実に及ぶ身近な範囲で全力を尽くしていればいい、という人生訓になるのだろう。「荻水先生」はそれまでの藩仕えの経験からその結論に達し、フリーの身になった。「いと」はその言葉を聞いて、何だか寂しくなり先生を慰めようと思って、「私がもう十(とお)歳をとっていたら先生のお嫁さんになってあげる」と言うと、先生は「いとは心優しい子じゃ」と言う。歳が50くらい違うのに、そのやりとりは年齢の差は消えて温かい気配が漂う場面となる。この小説を読んで、ぼくはヘミングウェイの「老人と海」の、サンチャゴと少年を思い出した。少年は老人を尊敬していた。いとは10歳で利発で、「こまっしゃくれた」少女だった。後年いとは噛み合わなかった亭主が死んでから、その時先生を本当に好きになっていた、と思い返していた。