自分がこの世に生を受けて今まで生きながらえてきた道筋の意味を考えると、偶然の連続に過ぎない事実のつながりに何かを見たくなる。時代と場所が限定される。偶然隣り合わせてある時期を過ごした人々がいる。大学まで出させてくれた両親がいる。大学で目にして興味を抱くことができた芸術の世界は、今もぼくの心の底にあって現実のぼくを捉えて「疼かせる」。孤独でいても充満する、幾分冷たいコンクリートのむき出しの空間が創造性を育んでいた。無機質なグレートーンの中に原色の絵の具が踊る、抽象の表象美がぼくを世界に結びつけていた。20世紀のニューヨークやロンドンには馴染みがなかった。19世紀のパリやスペインやルネサンスのイタリアには馴染んでいた。今は野々市という小さな街に住んでいる。思えば生まれてからずっと妄想しながら生きてきた感じがする。小学校への通学路、中学校への通学路、高校への通学路、大学までの通学路、みんな思い立てばすぐにでも歩いて確認することができる。過去の中に記憶をたどって妄想しながら歩くことができる。馴染みの道だから、記憶の中を散歩する感じだ。空間は同じで時間が違っている通路をめぐる、妄想の楽しみというものがある。野々市というのは過去が詰まった思い出の時空間と隣接する場所で、ぼくが就職した時に家族で引っ越したところなのである。だから少しだけずれている事になる。このずれは、何か意味があることなのだろうか?引っ越しを決断したのは、「明るい」ところへ移りたいと言い出した母だった。