開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

小さく、細かく、丹念に。

いつも自分に向かって書いているから誰彼と遠慮する必要がない。これは書くという行為を覚えた人の特権のような気がする。全てはフィクションだとの了解があれば何を書いても自由だとしたら、自分の想像力を頼みになんでも書いてやろうとする作家というポジションは最大の快楽を知っているに違いない。まさに「こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなくかきつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」である。

何でも書いていいとして今書きたいと思うのは、究極のところ人生は暇つぶしにすぎないのかどうかについてだ。自分がこの世に生を受けて今生きている意味があるかどうかだ。どうにもやり気が起きなくなる時、ぼんやりしていると考えているのは、ぼくの場合そのことになる。旅行に行きたいとか美味しいものを食べたいとか、本を読みたいとか散歩に行きたいとか、暇をつぶさずに過ごすには何をすればいいのかを考えたり、ではなく究極や確実な実体や掛け替えのない唯一のもの、が知りたい。これまで働いてきたから、職業や肩書きや名誉などではない人間として存在していることの、それさえ手に入れば死んでもいいと思えるくらいのモノまたはコトは何か? 経済学的にたどれば、「欲望」になる。哲学的に考えれば、「物質」になる。宗教的に考えれば、「神」か「仏」になる。社会的には「法律」、世間的には「噂」、心理学的には「自分」、生物学的には「性」、、、

生産する人、人助けする人、みんなを守る人、何かの役に立つ人、誰かを楽しませる人、誰かを幸せにしたいと願う人、何もできない人に向かい合う人、病気を治す人、、、そういう人は自分の人生には意味があると感じているだろう。そういう人でない場合は、そういう人になろうと努力すれば意味があるということなのか。ぼくは何ができるだろう。大きなことはできないが、小さなことはできるような気がする。自分の身の回りで、できることをすればいいとしよう。究極を考えると遠くに行ってしまうが、究極は自分の身の回りにあるのかもしれない。小さく、細かく、丹念に、生きてみよう。そういえば、小説は小さな説と書く。また小説に戻りそうになる。でも小説は暇つぶしの最高の道具だ。小説読みはやめておくと誓ったばかりだった。