開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

第二の人生じゃなく、第二の青春

定年後の人生はよく第二の人生といわれるが、第二の人生じゃなく第二の青春だと気づいた。もう一度人生を始めるのに青春から始められるからだ。肉体は生物学的に老人に近づいていくのだろうが、心は若く保てるし今以上に若返ることもできる。実際時間の使い方はほとんど本を読んだりして勉強している。国文については大学の名誉教授の数人の受講生となっているので、ゼミの学生のように学んでいいる。英語は基礎から、ボキャブラリーを増やすために、ANKIというアプリケーションを使って毎日単語を覚えている。最近は斎藤幸平のおかげでマルクスを読み直す機会ができ、社会科学をしっかりしたものにしようとする意欲が湧いてきている。マルクスを読むのは青春に帰るのとほとんど一緒のように感じられる。マルクスを読むのとマルクス主義者になるのとは別の問題になるのだが、後者についても斎藤幸平は自分をマルクス主義経済学者と称しているので、広い意味でマルクス主義者として自分を立てている。学者としてラディカルであるし社会的発言を厭わない姿勢は評価できる。私の第二の青春においては、自分がマルクス主義者になるかどうかも問う必要があると思っている。問う過程においてはどのような決断が求められるのかを明らかにした上で、やりたいと思う。自分にはその資格がないかもしれないし、マルクス主義者を自称する人たちとの関係性が問われることになることも覚悟しなければならない。しかし全ては自分の問題であるから、自分の納得できる範囲内でやりたいと思うし、これまでの自分のようにできないことを口にすべきではないと考えている。全ては自分の問題というのは、自己技術の探求のことだ。しかしそのことさえ、できないことを口にしている可能性がある。例えば、ダライ・ラマは自分はマルクス主義者だと言っているらしい。週刊誌の記事で見ただけで確証があるわけではないが、、、例えば、堤清二(辻井 喬)は日本共産党の招きで宮本百合子評価の講演会に講師として出席している。その行為はマルクス主義者のそれではないのだろうか? 私は過去サラリーマンであって労働者ではなかった。プロレタリアを信用しているかと問われれば、概念として認めるが現実の実態においては否定せざるを得ない、、、例えば、吉本隆明マルクス主義者なのか?、、、しかし、ここまで考えて問題の立て方が間違っていることに気づいた。マルクス主義者かどうかは自分では決められない。斎藤幸平が自分をマルクス主義経済学者としているのは、マルクス主義経済学を研究する学者という規定なのだと思う。私はマルクス主義経済学を含めたマルクス主義社会科学を学ぶ者というに過ぎない、ということにしておきたい。