開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

高校生が文学に出会うとどうなるか

ぼくは高校一年の時に継続して本を読み始めた。その時の感じは、今思い出そうとすると夢のような非現実感がある。睡眠時に見る夢とは違って、どちらかというと客観的だ。客観的という言葉は夢の場合に使わないと思うが、小説は作家が言葉で組み立てた世界なので、小説を読んでその世界に巻き込まれて行く時の感じは夢のようなのだが、その世界は一冊の本の中に客観的に存在し続けている、ということだ。その当時、世界文学全集が出ていて赤い表紙の豪華な装丁の本が友人の本棚にあった。ぼくのうちには全集などという文化的な資源はなかった。貧乏だったからというのもあるが、親父は職人で教養的なものからは遠かった。中学三年になってから成績が上がり出して、県内では2番目の進学校に受かってホッとした時期に友人宅の世界文学全集に目が止まったのであった。これを順番に読んでいこうという目標を持ったのだ。現実の地方の裕福ではない家庭で育った環境とはまるで違う世界が、読んだ本の中にあった。多分ぼくはそこで、本の世界の方が豊かで冒険と人生があり、価値あることは日常生活している世界にはなくて、文学の方にあると思い込んだのだろうと思う。今思うと、それが間違いの元だったと思う。自分自身の将来を具体的に描くという、この時期に大切な人生選択の機会というものがなおざりにされたからだ。高校の卒業アルバムにあるクラスの寄せ書きに、漱石の「草枕」からの引用を書いている。智に働けば角が立つ。情に棹差せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい、と。それは未成年が引用すべき文章ではない。でもぼくは小説を少しは読んできて、人生が分かったような気になっていたのだ。この事実をどう捉えるべきか、という問題は自分の人生を三分の二以上経験してきた今、解いてみなければならないことに思える。よくある話さ、で終わらせたくない。小説を読んで分かったような気になる、ということを一つの未成年の心理現象として、あるいは文学の属性の一つとして、良くも悪くも一つの精神現象として考えてみたいと思っている。