開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

文化的資本をめぐって

時々思うのだが、このブログやYoutubeやテレビなどの外部情報を一切絶って、本を読んだり勉強したりに集中できたらいいのにと。一見簡単そうなことができないと、意志が弱いと思って意気消沈したりする。だらだらがいけない。何をするか自分で全て決めていいのに何をするでもなく、だらだら過ごして1日を終わるのは最悪だ。好奇心と向上心だけはあるつもりでいるが、それだけで何かが身についているのだろうか。つまり本当に向上しているといえるのだろうか。本を読んで何か分かったような気になるのは、そもそも錯覚ではないのか。それだけだと評価の対象にはならない。評価とは価値が認められることだ。もしぼくに何か価値があるとしたら、それは少なくとも文化的な資本になりうるはずだと思う。資本という概念は、山本哲士氏から勝手に学んだものだが、学んだことで社会的といわないまでも公共的に何かを要請されていると感じる。繋がりを自分の方から作り出す技術がこれまでのぼくの人生経験からないか、と問われる。地元の読書会の会長になってから、繋がりが生まれ、その繋がりを資本に転化する実践というものが自覚されるようになってきた。漫然と気になった本を読むというだけではなくて、その関係性の全てを展開してみせる作業も実践の一つかもしれない。本は既に出版されていれば社会的生産物である。読むという作業は、作者との1対1の全体性の交換である。源氏物語を読むとき、ぼくはぼくの全体性の中で源氏物語の全体性と交換している。だから誰かの読みから語られる世界は、ぼくの世界とは本来的に断絶していて違うものなのだ。ぼくはぼくの中で源氏を生きていて全体ができている。誰かの源氏をたまたま知って違和感があったとしても、自分の源氏世界は揺らぐことがない。読むことで掴み取ったものは、まだ読了はしていなくても予定された完結の中で自分の中にあり続ける。、、、このように関係性を展開させることはできる。ここまで書いてきて気づくことがある。展開させることで身についていることが分かるし、それを実践という概念の中に含んでもいい気がする。とにかく、やはり読むだけではダメで書くことがどうしても要請されると思う。