開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

ぼくの高二病

今68歳で年金暮らしの自分がいて、確かに生きていて生活には困っていないから精神的には平穏である。世間から見れば定年後を悠々自適に過ごしていると思われるのではないかと思う。正直いうとコロナもそんなに不安ではない。やることはやるだけで、罹らない保証はないわけだから、罹ったら成り行きに任せるしかなく最悪死ぬことになる。ワクチンは妻や母親の安心のために打った。マスコミで報道される情報を信用しきれていなかったので、最悪副作用で死ぬかもしれないと覚悟していた。自分の体がどれだけ免疫力を持っているのか分かりようがないわけだから、運が良かっただけだ。今現役で働いている人には申し訳ない気持ちがする。今苦しんでいる人と、のほほんと過ごせる余裕のある人に分断されている現実があると思う。時代に敏感な人はコロナと気候変動は根を同じくする現象に思えることだろう。地球が悲鳴をあげているのと同調して絶滅危惧種に分類された生物が消えていく。危機は誰もが薄々気づいている。しかも何もしない。ぼくの学生だった頃は、ベトナム戦争があって国同士が敵対していたから世界が沸騰していて荒々しかった。今は静かに進行する危機だ。もちろん、アフガニスタン北朝鮮ウクライナなどの例外はあるが。

さてここまで書いたのはこれから考えてみようとすることの外堀である。今はしっかり外堀のことが分かっているが、ぼくの思春期の頃は外の世界のことはぼんやりとしか把握できなかった。ふわふわしていてよそよそしく、幾分物悲しかった。その時期のことが自分の人生の中で謎のような時空間だった。そのまま謎として解くこともなく、定年後をぼんやり過ごしてしまってはいけない気がしてきたのである。

高校二年の時、十日間ほど登校拒否をしていた。大学病院で肉体、精神両方の総合的な検査を受けて自宅療養していたから、自らの意志で登校拒否をしていたわけではないかもしれない。でも肉体的にはどこも問題がなかったから、十日間も休む必要がなかったのも確かだ。その頃、完全に周囲から隔てられ時間が内と外で違う流れをしていた。とにかく目先の試験に追われる時間から逃れたかった。サラリーマンになってから出社拒否というのはなかったから、実際にぼくの人生の中で理由もなく自宅に閉じこもったのはその時だけだ。早い時期に引きこもりになって、軽く済んだということだろうか。今だったら鬱と診断されるかもしれない。五十年以上も前のことだから、確かなことは診察しても分からなかったのかもしれない。ただメランコリーの症状はあったと思う。無性に訳もなく悲しかった。でも泣こうにも泣けなかった。原因はあるはずだ。それが突き止められない限り、謎のままなのだ。どうしたら謎は解けるのか、分からない。それはフラれた原因が分からないのと同じなのか、、、