正確には思い出せないが、河合隼雄が現代の子供たちの不幸な環境として、何でもすぐに手に入る便利な生活を挙げていた。すぐに手に入ってしまったら何事もつまらないだろう。そのつまらなさは倦怠感を生み、冒険のような最高の行動経験から隔てられてしまう。ぼくの場合も子供の頃の遊びの感覚を思い出してみると、誰もが持っているとしたらそもそも興味を抱かなかったと思える。自分にとって宝物は、誰もまだ持っていないものだった。例えば、レーシングカーのおもちゃで専用のリモコンとサーキットで走らせることができるものだった。今このように書いてみると、自分の子供時代ははっきりと格差があったのだ。貧乏な家庭ではそんなおもちゃは買ってもらえなかった。ぼくの家庭は貧乏だったが、そのレーシングカーは何かの懸賞に当たって手に入れたものだった。それでそれを持って、お金持ちの家で遊ぶことができた。今思えばクラスでその遊びはぼくたちだけができていたのかもしれない。しかし子供の間は格差は全く意識されなかった。それは当たり前のことだったように思われる。あるいは思い知らされるほどの大きな格差はなかったのかもしれない。
本当はこんなことを書き出すつもりはなかった。現在の情報過多の状況が情報の価値を気づきにくいものにしていることを書きたかった。具体的に本について、どれだけ本が素晴らしい経験を与えてくれるものかを自分の経験から書いてみようとして、今日のブログを始めたかった。本も容易に手に入るものの一つで、本を現代人が読まなくなったのも本が多すぎるからではないのか、と思う。何を読んでいいか分からないほど、溢れている。小学校で何年生だったかは思い出せないが、夏休みに「十五少年漂流記」を読んだ時の、ワクワクして想像上の太平洋にいた気分が不思議な思い出に感じられる。この夢見るような独特の感じがいいのだ。今思うと、その感じだけで何度も反芻し生きていけるような気がする。