開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

阪神淡路大震災の時10歳だった田代作人さん

本当は記事の出処元をリンクで示すべきなのかもしれませんが、いつまでも自分が読み返せるようコピペさせていただいた。あの阪神淡路大震災の時10歳だった、今は歌手として活躍されている田代作人さんの挨拶文が心に響きました。(というか、ありのままで具体的な文章だったので)

【田代作人さんあいさつ全文ママ】。
あれから27年が経ちますが、あの日あの時の記憶はまだ鮮明に覚えています。
地震直前の数分前にふと目覚め、2階から1階に降り手洗いに行くと、外で異様に犬が吠えていて、どうしたのかと窓を覗くと外は夕方のように明るく、空は紫がかった夕景のようにきれいで、どこか不気味でした。偶然にも起きていた母と言葉を交わし、布団に戻った瞬間、地の底から静かにゴーという地鳴りが始まり、すべてが揺れだし、壁が崩れ、屋根が落ちてきました。一瞬なのか、数分なのか、どのくらいなのか、わからない間があり、気が付くと、がれきと土埃の中、隣で寝ていたはずの上から2番目の兄の姿も見えず、ただ、何が起きたのかわからずにいました。地震という言葉になじみがなかった僕は、理解ができず不安と恐怖で無我夢中で叫んでいました。それに気づいたのか、がれきの中の暗闇から、動けない、助けて、痛いと絞り出すような声が聞こえてきました。兄が危険な状態だと感じ、奇跡的に身動きが取れた僕は助けに行こうとしましたが、兄のところまでがれきが邪魔でたどり着けず、必ず助けるからと兄に声をかけて、隙間を縫って自力で這い出しました。がれきの上から見た光景は、生涯忘れることのない衝撃的なものでした。建っていた隣の家や建物が跡形もなく崩れ、地面はひび割れ、電信柱は傾き、倒れている。見渡す限りが変わり果てて、見知らぬ場所にいるような錯覚に陥りました。当時まだ10歳だった僕には、世界が終わったかのように感じるほどでした。全壊した家のがれきの上から助けを叫んでいると当時2歳だった妹を抱えた母と父、そして長男が無事で、駆けつけてくれました。声が聞こえたのか、父や母が助けを求めたのかはわからないのですが、どう考えても自分たちも大変な中、名前も顔もわからない近隣の人たちがどこからと集まり、父や母、長男を手伝い、兄を、そして手遅れであったのですが姉の遺体をがれきの中から出してくれました。僕は幼かったため、これも誰なのか見知らぬ人の心遣いだったのでしょう、駐車場の誰かの車から救助活動を見届けていたのを覚えています。車の中からは、姉が無事に助け出されたように見えていたので、近くの診療所に母と行き、母が診察室から出てきて首を横に振った時は、自分が自分じゃ無くなるような、とにかく人生で最もつらい瞬間でした。7人家族で兄弟が5人と大所帯の我が家は、働きづめの父と母と、当時まだ17歳だった姉で成り立っていました。家事を手伝い、部活動に励み、学校の先生になる夢のために、友達と遊ぶのも週1回と決め、アルバイトで予備校に通うためのお金を自分で稼ぐような勤勉な姉でした。家族全員が姉の身代わりになれたらと願うほどよくできた人でした。少しお茶目なとこもあり震災の前日、母にご飯だからと姉を呼びに行くように言われ、姉を呼びに行ったのですが、一向に返事がなくて部屋を覗くと、イヤフォンで音楽をノリノリで聴きながら勉強していたので、いたずら心で頭を振る真似などをしてふざけたら怒られて、その日、口をきいてもらえませんでした。明日、謝ればいいわ。それが姉との最後でした。そんなことを許してくれない姉ではないとわかっていても、お墓の前で何度も謝りました。最後と分かっていれば、もっとたくさん話したかったし、もっとわがままも言わずに迷惑もかけなかったのにと後悔は尽きません。身をもって知った、当たり前が当たり前じゃないということを、家族を大切にということと、今日を大切に、姉の犠牲を胸に、日々生きていこうとしました。それでも家族や友人知人、自分でさえ、いつ誰がどうなるかわからない、ある種の脅迫めいた気持ちを27年間という月日、保ち続けて意識して生きていけるほど僕は強くありませんでした。大切を見失い、嘘や過ちも人生の中でありました。若いじぶんには、時には人を裏切ったりすることもあったと思います。そんな時、いつも立ち返る機会を与えてくれたのは、ほかならぬ自分が書いた歌でした。忘れてはいけないと書き留めた言葉を、忘れないメロディーに乗せて作った歌たちです。歌うたびに思い出す、単純なことですが、今は仕事として、ある種の使命として、震災のこの時期が近づくと歌うようにしています。震災学習や命の授業、ゲストティーチャーという形で語り部ならぬ弾き語り部という、震災と、そのあと歩んだ人生から得たメッセージを歌にして語り継ぐという仕事をさせていただいています。それは僕自身も歌うたびに見失いそうになった大切なものに気づき、見つめ直すための戒めとなりました。当時10歳だった僕が当時の父や母とほとんど変わらない年になり、あの日あの時に父や母が背負ったものの大きさを少しはわかるようになったように感じます。僕の父は無口で不器用です。ある日思い悩んだ時に、生まれてきた理由や答えを感じたことがあるかと父に尋ねたら、父は無口で不器用な人なんですが、即答で、お前らが生まれてきたことやと答えてくれました。無口で不器用やけど実は愛情深い父、逆に感情的でわかりやすく愛情を注いでくれ、誰よりも厳しく、それでも誰よりも寛大に粘り強く、僕らを分け隔てなく見守り、心配し続けてくれている母。そんな2人には震災というものは災害というよりも、ただ愛する家族、姉を奪った恨むべきものだと思います。そんな両親にとって、忘れたい出来事を忘れないように歌う僕はある種の親不孝かもしれません。ただ、被災した次の日から、僕らが一人で生きていけるようになるまで育ててくれたこと、本当に感謝しています。父のように生まれてきた答えを見つけられるように、母のように信念を貫く強さを持てるように、これからの当たり前じゃない日々を、肩ひじ張りすぎないように歌い、生きていきたいと思います。
最後になりましたが、あの日、がれきの中から兄を救い出し、姉を運び出してくださった顔も名前も知らない心温かい人たちに心より感謝します。ならびに、こうしてまた歌う以外に、大切に立ち返る機会を与えてくださった1.17のつどいにかかわるすべての方々に感謝します。

令和4年1月17日 田代作人

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