推理小説とかファンタジー、時代小説などと違っていわゆる純文学にはどこかが決定的に違う部分があるように思える。藤沢周平や安部龍太郎や司馬遼太郎、永井路子の小説はいくつか読んで面白かった。ミステリーものでは、ローレンス・ブロックのニューヨークものが好きだった。でもそれらを読んで満たされないものがある。作家自身の固有の体験がどう小説に構造化されるかで、どれだけ真に迫っているか、リアルであるかという点でいうと、やはり純文学の自由さにpriorityを置いてしまう。小説を通して作家自身の想像的な生き方が、ぼく自身の生き方と共振することの快感とか喜びを体験したいので、作家の生きた人生観とか死生観がぼくにとっては大切な要素になる。読書会の仲間でも小説をエンターテイメントと割り切って自分が楽しめればいい、という人もいる。今日、文豪をキャラクター化して「文豪ストレイドッグス」や「文豪とアルケミスト」という新たな分野があることを知った。「双方とも小説・漫画・ゲーム・アニメと、メディアミックスが行わ