開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

本とともにある生活

推理小説とかファンタジー、時代小説などと違っていわゆる純文学にはどこかが決定的に違う部分があるように思える。藤沢周平安部龍太郎司馬遼太郎永井路子の小説はいくつか読んで面白かった。ミステリーものでは、ローレンス・ブロックのニューヨークものが好きだった。でもそれらを読んで満たされないものがある。作家自身の固有の体験がどう小説に構造化されるかで、どれだけ真に迫っているか、リアルであるかという点でいうと、やはり純文学の自由さにpriorityを置いてしまう。小説を通して作家自身の想像的な生き方が、ぼく自身の生き方と共振することの快感とか喜びを体験したいので、作家の生きた人生観とか死生観がぼくにとっては大切な要素になる。読書会の仲間でも小説をエンターテイメントと割り切って自分が楽しめればいい、という人もいる。今日、文豪をキャラクター化して「文豪ストレイドッグス」や「文豪とアルケミスト」という新たな分野があることを知った。「双方とも小説・漫画・ゲーム・アニメと、メディアミックスが行われています。」ということで、今度文学講演会を依頼している若手の先生から紹介された。今の若い人がそういうところから文学に興味を持ち出すこともあって、先生は肯定的だった。ぼくは返って作家と読者(プレイヤー)の距離が遠くなってしまう気がする。よく小説の映画化がされていて、ぼくも映画を見ることもあるが、自分が読んで作者と交感した世界との違和感を感じることが多い。やはり「出会い感」が大事だと思う。自分のペースで作者と作り出す想像の空間に、読書中の気配や気持ちの動きが混じり合っていると思う。目には見えないことだけど、自分の体の中にはきっと蓄積されていて、あとから何年も経って思い出そうとすると湧き上がって来ることがある。それは自分の過去とはもちろん違ってはいるのだが、どこかで繋がっている感じも確かにするのである。それは長年繰り返してきた、本とともにある生活なのだと思う。