斎藤幸平によって現代にマルクスが蘇った。物質代謝という概念が概念としての力を発揮するようになった。あらゆるものが物質の自己運動でできていて、資本主義はそれを乱していることが分かり始めている。21世紀のマルクス主義というものが20世紀のマルクス主義を更新するだろう。20世紀のマルクス主義は、戦争とともにあった。21世紀のマルクス主義は、99パーセントの地球市民とともにあるだろう。
さてぼくはといえば、マルクス主義者ではない。何も実践していないからだ。斎藤幸平はマルクス主義経済学者で言論活動もしているからマルクス主義者だと思う。但し政治権力が絡む場にはいないから旧来の意味ではマルクス主義者ではないと思う。ぼくは敢えて言えば、実存主義者だ。ぼくは構造主義によって実存の構造が暴かれたとしても、状況と向き合い闘う姿勢は否定されようはなかったと思っている。現代思想の定説とは逆に、竹内芳朗氏はレヴィ=ストロースのサルトル批判を見当外れとして退けている。
【レヴィ=ストロースのサルトル批判への批判】
わたしは『サルトルとマルクス主義』を執筆していた六四年の時点では、まだレヴィ=ストロースの著作を大して読んでいなかったため、この(『野生の思考』最終章における)サルトル批判にもなにか深遠な意味が秘められているかもしれぬという危懼の念から、それにたいするわたしの判断をごく控目におさえていた〔同書一八八ページ註(24)参照〕。だが、いまとなっては、この批判は明瞭に見当外れだったと断言できる。そこで、その理由を本論文のテーマと関係するかぎりで説明しておこう。
第一に、レヴィ=ストロースには、分析的理性、弁証法的理性、および両者の関係が、まるで理解できていないようにおもわれる。彼によれば、サルトルは分析的理性と弁証法的理性とを、一方であたかも偽と真のごとく対立させるかとみれば、他方では同一の真理に導く異った道として相補的なもののようにも説いている。ところが前説をとれば、科学的知識への不信を植えつけるばかりか、そもそも分析的理性の所産たるみずからの『批判』の仕事そのものの自己否定におちいるし、逆に後説をとれば、こんどは両理性を対立させたり前者にたいする後者の優位性を主張したりする理由がわからなくなる、と。だが、このような批判は、彼の両理性の理解そのものを前提としてさえも、筋が通らない。なぜなら、前説をとったところで、あらたに弁証法的理性にもとづいて科学を再編成する道(科学のパラダイム変換の道)はのこされているのだし、また『批判』の仕事が弁証法的理性でなく分析的理性の所産だときめつける根拠は何もない(逆に、弁証法的理性批判はそれ自身、弁証法的でなければならぬ、とサルトルは明言している)からだし、また後説をとったところで、両理性が「異った二つの道である」以上、両道のあいだに対立や優位性を云々することに何の差支えもないはずだからである。
だが、両理性の関係は、ほんとうはレヴィ=ストロースの解するような単純な対立でも単純な相補でもないのだ。個別的対象をそれだけで孤立させて研究し、それを要素への還元にむかうのが前者であり、逆に個別的対象もつねに全体的連関のなかに置きなおし、それを全体化する方向で研究するのが後者だ。そのかぎりでは両者はたしかに対立するが、一方、後者は実践の場における主体-客体の同一性にもとづく<了解>のほかに、客観的過程としての<実践的惰性態>の<知解>をもふくむかぎりにおいては、必然に前者をうちにふくまざるを得ぬのである。事情はあたかもベルグソンにおける<知性>と<直観>との関係にも似て、するどく対立しながらも同時に部分と全体との関係にもあるわけである。
ところが彼は、もうすこしさきでは、両理性の関係だけでなく両理性そのものの概念もまるでわかってないとしか推測できないことまで、口走るようになる――「あらゆる理性が弁証法的であることについては大方の同意が得られるだろうし、わたしの方もまた、弁証法的理性とは進行中の分析的理性のようにおもわれるので、このことをみとめるのにやぶさかではない。だが、そうなれば、サルトルの企ての基礎にあるこれら二つの理性の形態の区別は対象を失ってしまうだろう」。「弁証法が発見されたために、分析的理性は弁証法的理性をも説明せねばならぬという不可避の要請に迫られている……ところが弁証法的理性の方は、自分自身をも分析的理性をも説明する能力がない」。こうなってくると、両理性概念は内容的に完全に入れ替ってしまったわけだから、議論のための共通の基礎すら失われてしまった、と言わざるを得ない。この批判の出たあと、サルトルがレヴィ=ストロースのことを、まるで弁証法を理解していないとしきりに論難していたのも、この点からすればまことに当然だったようだ。
第二の問題は、構造主義と実存主義との方法論上の対立に直接かかわる問題だ。レヴィ=ストロースは言う――わたしはむしろサルトルの言う<超越論的唯物論者>、<審美家>の立場を堅持する。なぜなら、人間諸科学の究極目的は、人間を構成することではなくて人間を解消することになると、信ずるからだ。文化を自然のなかに再統合し、けっきょくは生命をその物理=化学的諸条件の総体に再統合すること。ただし、それによって還元される諸現象を貧困化しない、この還元によって逆に惰性的物質の方が既成の観念とはひじょうに異なる属性をもつことがあきらかとなる、という二つの条件のもとでそうするのである、と。
見られるとおり、構造主義の方法は、たとえ旧分析的理性のように複雑→単純への素朴な志向ではない(「科学的説明とは、複雑から単純への移行ではなく、可知性の少ない複雑さを可知性の多い複雑さに置き換えることだ」と、彼も語っている)としても、依然として具体→抽象の一方通行しか考えぬ下向法=分析的理性の方法論的地平にある。これに反して実存主義的マルクス主義の方法は、具体→抽象→具体の下向=上向法、具体的経験から出発しつつそれの科学化のためにいったんそれを抽象化し、その抽象化によって可知性を豊かに獲得しつつふたたび具体的経験にもどってくるという、往路と還路とをともにそなえた方法であること、いままでくりかえし強調してきたとおりである。いずれの方法が現代のわれわれにとって真に必要であるかは、思想モードなぞにひきまわされぬ冷静な読者の判断にゆだねたい。
第三に、「いったんコギトーの明証性のなかに身を据えつけた者は、そこからは出られず、永久にその虜囚となる」と彼は語っているが、この評言もすくなくとも『批判』のサルトルには妥当しない。なぜなら、彼の実践的かつ歴史的弁証法は、<了解>だけでなく同時に<知解>をもふくむからだ。
最後に、「(サルトルのように)人間を弁証法によって定義づけ、そして弁証法を歴史によって定義づけたとき、<歴史なき>民族のことはどうなってしまうか?」と言って、サルトルにおける<歴史の特権化>をさかんに非難しているが、この批判も半ばしか妥当しない。たしかに、<歴史なき民族>なるものは存在せず、ただその歴史を回帰的循環の時間性のなかに彎曲させて<冷たい社会>を形成する民族がいるだけであるから、この民族をも史的唯物論は的確にとらえねばならぬにもかかわらず、旧来の史的唯物論は、またその原理を無批判的に受け入れてしまってそこから出発したサルトルの『批判』の仕事も、この社会のことを歴史のなかに包摂してくるうえで、きわめて不十分なものがあった。だがこの欠陥は、『国家と文明』のなかでも明示しておいたように、なにも人間を弁証法によって、弁証法を歴史によって定義づけたから生まれたのではなくて、その弁証法が史的唯物論の本来的にもつ近代主義的母斑にわざわいされて、<野生の思考>に固有の理性をおのれのうちに包摂し得るまでに十分に広闊でではなかったから生まれたのである。一方、レヴィ=ストロースの仕事の方はと言えば、こんどは<冷たい社会>と<熱い社会>との連関・移行の歴史的問題を理論化の埒外に置き去りにし、きわめてスタティックな手つきで<野生の思考>を復権したにとどまるため、ちょうどサルトルとは逆の欠陥を露呈しただけにおわってしまった。わたしの『国家と文明』は、両欠陥をのり超えようとめざしたものであったが、これもまだまだ不十分で、この仕事を完遂するためには、最近ようやく注目されつつあるいわゆる<第三世界>のマルクス主義理論家たちの仕事をも射程に入れてこなければと、今日では痛感している。
だから未だに基本的にはサルトル信奉者であり続けている。上記引用したようにサルトルの日本での最も優れた理解者は、このブログでも言及している竹内芳郎氏である。サルトルの哲学を吸収して実践もされているからサルトル主義者だともいえる。ぼくはどうしてか、長い間竹内芳郎氏のことを忘れていた。もう一度彼のサルトル研究と実践の足跡を追ってみたいと思う。それは自分の足跡にも通じる部分があるからだ。
● 引用は全てkazoh氏のブログからのものです。ありがとうございます。