今年立てた目標に、自分が属する読書会で読んだ本の感想文を書くというのがある。そこで今年最初の課題本の小池真理子「テンと月」の感想文を書こうとするのだが、どうも億劫で書く気がしないでいる。いっその事目標から外そうと考えたが、外すにしても理由をはっきりさせておきたいとこのブログに向かっている。何で目標にしたかというと読んだ本のまともな感想文を書いたことがなかったからだ。これまで思いついたままをブログに綴ってきたことはあっても、「まともな」文章ではなかったという気がしていた。「まともな」文章というのは書評のような文章の事ではない。エッセイのような文章でもない。あえて言えば、「公共的な」文章である。自分の主観だけの感想ではなく、一定の公共性(客観性)を持ちうるコメント力のある読書感想文をと考えてみたのだが、それは書評になってしまうのだろうか。ネット上にも多くみられる書評のほとんどは、自説を言わんがために対象の本を勝手につまんでいるような印象を受ける。よくよく彼我の能力差を鑑みて自分の立場を立てているのかと疑われるものが多いように思う。商業誌に記載されたものは、商業的にウケることが見え見えの場合もあって辟易する。自分は書評などを書く能力はないから書けないだけだ。書評は感想を書くのとは違う。感じたことをそのまま書くだけでは無く、評価しなくてはならない。何と評価するかが求められる。同じ作者の別の作品と評価したり、登場人物や話の進行のリアルさなどの描写力だったら基準になりそうである。それならば読者という立場でも評価は可能だと思われる。
そもそもぼくが書こうとするのは「感想」以上のことなのかもしれない。感じたことからさらに進んで、そのことで自分がどう変わったかまでを含んでいる。ここまできてようやく、「テンと月」の感想文を書くのが億劫な理由がわかった。自分を変えてくれなかったからだ。ちなみにちょっとだけ感想を言うと、主人公の夫はあっさり死にすぎだったと思う。それはこれから老いを迎える女性の自立を描きたかったのだろうけれど、男の自立が難しいことも配慮してくれないと男性の読者を満足させられないと思う。