40歳を過ぎた辺りから心境の変化が現れ出した。このまま今の会社で打ち込める仕事がなく、やらされる管理下で給料のために働いていて良いのだろうかという疑問にとらわれていた。何か心に空洞ができた感じがしたかどうかは分からない。ローンで家を建てたばっかりだったし、転職の勇気はなかった。何か大事なことが会社勤め以外にあるのではないか、このままではその大事なことは体験できないのではないかと思われた。この状態を心理学で「中年の危機」というのであろうか?それは分からないが、多くの人が人生のこの辺りで立ち往生するみたいだ。ぼくの場合はそもそも今のようなブログ環境はなく、仕事以外のことで何かを考えるという事がなかった気がする。今は思い切って自分、自分と何でも果てがなく自由に書いているが、その頃は自分ということを考えてはいけない感じがしていたと思う。自分にかまけるという言い方があるように、自分のことを考えるのは青臭くて、恥ずかしいような感じがあったと思う。極端にいえば、無駄な考えなのだった。しかし、そうであれば随分肩苦しく、いつも世間体を気にして会社と家庭しかない、恐ろしいほど平板な人生を送っていたことになる。自分を見つめるという、中学生以来の自我の世界が中年になって必要になったのではないかと、今になっては振り返る事ができる。恥ずかしいことなんて何もない、と今では言い切れる。しかし、ぼくの中年の頃はそうではなかった。無駄なことはやってはいけなかった。人生のレースに取り残されるという漠然とした不安にさらされ続けていたからだ。
そんな時、小説が読みたくなった。夏目漱石や芥川龍之介、安部公房や三島由紀夫など普通誰もが読むような小説を読んで来なかったことに気づいた。どうして小説だったのか、歴史や心理学や社会学や評論などの啓蒙書ではなかった。欲しいのは知識ではなかった。フィクションでもいいが、体験がしたかったのだ。結果が分かるまでの、苦しみから解放されるまでのストーリーを疑似体験したかった。