開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

古文、現代文、英訳文

ぼくは、定年後の有り余る時間を文学と英語学習に使いたいと思い、毎週火曜日に古典文学の元大学教授の私設ゼミに通い、英語は独学している。文学の方は、源氏物語万葉集の原文を訳し、先生と一緒に原文の詠み合わせをしている。英語の方はこれまで様々な学習法を読んで試してきているが、独学はまだ習慣化されていない。これまでのところ、英語と日本語の違いを隅々まではっきり明確に分かることがまず最初だ、という認識に傾いている。そこまで分かるには時間がかかるが、分かってしまえばとっさの判断にも迷いがないので、トータルには早いのではないかと現在のところそういう結論に達している。あくまで退職後の有り余る時間のある自分のような人間にとっては、ということだが、、、

そこで今日は、源氏物語の一文を取り上げて、どう日本語と英語の現代文に訳されるかを徹底的というか、自分に納得できるまで見たいと思う。以下は、エンゼル財団が提供しているコンテンツからお借りしたものです。

 

[原文]「限りあらむ道にも、おくれ先さきだたじと契らせ給ひけるを、さりとも、うち捨ててはえ行きやらじ」(「桐壺」)

[谷崎]「死出の旅路にももろともにという約束をしたものを、まさか人を打ち捨てて行くことはできないであろうに」

WaleyEmperor: “There was an oath between us that neither should go alone upon the road that all at last must tread.”

→(直訳)最後には二人して歩んで行かねばならない道程を、私たちのどちらも一人きりでは行かないようにしましょうという誓いが私たちの間にありました。

Seidensticker“We vowed that we would go together down the road we all must go. You must not leave me behind.”

→(直訳)私たちが二人で行かねばならない道は一緒に行きましょうと誓いました。あなたは、私を置き去りにしてはいけません。

Tyler“You promised never to leave me, not even at the end, and you cannot abandon me now! I will not let you! ”

→(直訳)あなたは決して私のもとから去らないと約束した。たとえ、終わりのときでも。だからあなたは今私を見捨てることはできない。私はあなたにそうさせない。

 

これは桐壺帝が溺愛する桐壺の女御の死を前にして、嘆き悲しむ様子を描いている箇所になる。源氏物語の現代語訳は数多くあるが、谷崎訳は最も原文の平安王朝風の雰囲気を残そうと、文体も現代というよりは古風な雅を感じさせるものになっている。3つの英訳は古風な感じを出そうとする意識の度合いが分かる訳になっている。

日本語では作者の紫式部が帝の気持ちを推し量って書いているが、「給ひ」を使って上下関係を必ず入れている。だから作者が小説中に出ているとも言える。帝が自分の発言に「給う」は使わないから。(この辺の文法はぼくの知識は怪しい)

日本語では、誰のことを言うかで敬語は文の構造の中に組み込まれている。ここでは作者と登場人物はいわば渾然一体となっている。この渾然一体となった文体は自然の風景も呼び込み、源氏物語の壮麗さを表現するのではあるが、英訳では無理なのではないだろうか。

ところで、Tyler訳は I は帝で、Youは桐壺の更衣と主語をはっきりと立て、promiseとabandonという動詞をシンプルに選んでいて帝の会話文になっている。古風さが全くないものの分かりやすい現代英語になっている。しかしここまで訳されると、もはや紫式部の作品の訳(文学の翻訳という意味)ではなくなると思うが、どうだろうか?あと、直接話法というかそもそも会話文が入ること自体、源氏物語にはほとんどないのではないだろうか?分かりやすい会話じゃなくて、平安貴族は和歌を歌いあって教養の深さとセンスを競い合っていたのだから。

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