ずっと閉じこもっていたいという欲求がつのってくる。穴があったら入りたいというのはきっと本能の一部だろう。本を読んでもそれで何かが身につくのかと考えたら、もっと意味のあることをしたいとも思う。小説は読んでいる最中は閉じこもっていられる。今はそれでは飽き足らない。読書という行為をそれだけを単純化して、効果の面から見れば学習参考書を読むのは、もし試験を受けるのであればとても意味のある行為なのであるまいか。試験に合格するという明確な目標があり、目標達成を手段に分解して対策法を読んでいけばいいのだから、その過程は全て意味のあることだ。ぼくの人生を振り返ってみて、高校や大学受験の時の勉強ほど、意味のある充実した時間を過ごした気がする。あの学習参考書を読む時間の、意味に溢れる濃密さが懐かしい。そう言えば受験生は勉強に閉じこもっていても非難されない。小説家や学者、研究者はそういう閉じこもりが社会的に許される。定年退職者は家に閉じこもっていると不審がられる。定年退職者は何者でもないからだ。不審がられても気にしなければいいだけのかもしれないが、どういうわけか不審がられないようにしようとする。だから地域の読書会なんかに参加したり、テニス教室に通ったりして外出の口実を作ってしまった。本当は覚悟の上で、鬱々とした「洞窟」に住み込んで、何かを研究してる方が結果的に何かを生産するかもしれない。要は、この閉じこもっていたいという欲求に適切な仕事を与えられればいいのだ。意味と価値を生産する仕事を見つければ解決するということだ。学習参考書を読むのは意欲を感じるが、何かの資格を取るための学習参考書はだめだ。もう資格には興味がない。職業というものは今では全く関心がない。働くのは時間の無駄だと思ってしまった。自分だけの研究領域が欲しい。源氏物語やマルクスやサルトルではダメだ。西村賢太の藤澤清造のような全的な研究。森田真生の数学のような価値ある体系を持ちたい。ぼくは残念なことにまだ自分を生きていない。あえて言えば、気になった人物の追っかけをやっている。このまま終わるかもしれない。それを思うと空虚に悶える。しかしそれを見つめようと思う。