開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

土曜の午後も、気は収まらず

今この昼食後の、のんびりとした時間が気づいてみるととても良い。普通に無理なく平和に暮らしている時間の流れだ。本を読んでいる集中した時間もいいが、本に頼らなくても満たされていればこの方が豊かだと思う。ここ数日ウクライナ情勢のニュースばかり気になっていて、その動向や解説や自分の判断などにずっと囚われていた感じがする。そうだ、今日は土曜日で、土曜日の午後はどこか開放感があったのを思い出した。もう働いていないのに、この開放感だけは残り続けている。ちょうど、ぼく自身のウクライナから少し解放されたのかもしれない。とにかくウクライナ人はすごいと思う。自分や家族の死は当然怖いはずなのだが、自国のために死ぬことを受け入れている。ここで戦わなかったらもっとひどい目に合うということが、腹の底から分かっているのだろう。「死んで生きる」ということが身についていて、状況から逃げ出していない。物理的に国外に逃れている人々も多いが、そんな人も友人、知人、仲間、親戚、家族の中に国内に残っている人がいると思う。いや、逃げることさえ状況と無関係ではない。戦争が日常の生活空間の中に暴力的に侵入してきて、それが普通になっている。もう茫然自失でいるわけには行かず、逃げるか戦うかを決断しなければならない。周りがみんな戦おうとしている環境なら、一人孤独になって悶々としている間もないかもしれない。きっと、お前はどうするのかと問い詰められるだろう。原子力発電所を攻撃するという選択も当然のようになされて、狂気の沙汰に思うゆとりもなく、意識が現実に追いついていかない。プーチンは本当に原子力発電所の破壊を脅しに使うのだろうか?究極の選択をゼレンスキーに迫るのだろうか?どこまで冷静でいられるだろうか?そこに一瞬の狂気は入り込まないのだろうか?、、、やはり、気は収まらずにウクライナに囚われてしまう。

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