開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

自分と自己について

ぼくのブログは、自分のことしか書いていない。自分のことの中には、自分が感じたことと、自分が想像したことを含んでいる。自分のフィルターにかからない、いわゆる客観的なことにはこのブログでは触れないことにしている。ウクライナの状況について書いてはいても客観的に、自分をどこにもない架空の場所から眺めて論じるということを避けている。専門家ではないからそのような能力もないこともあるが、原理的に自分が書くことにおいて不可能と決めているから、というのが正確な表現である。

それは言葉を使うからだ。ブッダの教えの中に「不立文字」というのがある。言葉を立てない(使わない)ということだ。サルトルは「嘔吐」の中で、有名なマロニエの木の根っこに嘔吐する場面でそのことを表現している。言葉は身体性を持つから、生理的に表現した訳だが、言っていることは「不立文字」と同じだ。サルトルは「言葉」と題する年少期の自伝の中で、百科事典という言葉の「海」の中にいて飽きなかった事を書いている。純粋に言葉という観念の世界で育ったのだった。もし、百科事典のマロニエの木のページにマロニエの木の写真があって、思わず目に止まったとしたら、大人になって嘔吐した場面の原型のような経験をしたかもしれないと思う。何か、写真がページから滲み出して動き出すような映像を見たかもしれないと、ぼくは想像する。サルトルは外で元気よく遊ぶタイプの子供じゃなく、本の虫だったようだ。言わば、存在は観念で覆われていて、ただのモノに出会うことがずっとなかったのではないかという気がする。ただのモノの象徴がマロニエの木の根っことして、形象化されたのではないかと思われる。

では、なぜ小説「嘔吐」を書かねばならなかったのだろう?

同時代の日本の作家、埴谷雄高は小説「死霊」の中で、モノとしての存在が自身を持て余して現象を待ちわびている瞬間の、不気味な出会いを描いている。

「このひっそりと恐ろしいばかりに静まり返った、身動きもせぬ世界、毛筋ほども身動きすれば自身の形が崩れてしまう世界は、<ある>と言う忌まわしい繋辞を抱きしめて、歯を噛みしめたまま、身動きもせず跨っている、あっは!存在と不快と同意語であるこの世界は、忌まわしい繋辞の一つの端と他の端に足をかけて、悲痛な呻きを呻き続けているのだ。誰がこの呻きを破って、見事な、美しい、力強い発言をなし得るのだろう。」

それを「虚体」と呼ぶらしい。埴谷雄高自身サルトルとの類似を認めている。ブッダサルトル埴谷雄高が同じ問題に突き当たったとすると、やはり言葉の存在性になると思われる。サルトルは「嘔吐」の後、「存在と無」を書き始める。「嘔吐」体験が出発点だったのだが、なぜそうなのかが問われなければならない。いや、それは論理的な問題ではなく、止むに止まれず、どうしようもなくなされたのだ。パリがあのヒトラーに占領されてしまった現実に向き合わざるを得なかったことで、そこから出発せざるを得なかったのだ。自由を奪われることは、裸の、むき出しのモノになることだ。ともかくも、そこから出発するしかなかった。

ぼくの場合、自分と自己から出発するしかないと考えている。自分は即自存在で、自己は対自存在だとして、哲学ほど厳密ではないがそこから自分の考えを組み立てるしかない、と考えている。

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