ぼくは3年間このブログを書き続けてきた。投稿数886になる。定年退職してからしばらく職探しもしたが、妻も定年退職してからは年金だけが収入の無職の生活になった。苦しかったのは退職して1年のあいだだった。居場所がなく、孤立感に付きまとわれていた。就職する前の学生の頃にはあった、JAZZ喫茶や映画館街はすでになくなっていて行き場がなかった。本屋でさえ、あの頃のような雰囲気が失われ寂れて、活気が感じられなくなっていた。メルツバウというマスターが現代美術に詳しい人の、珍しい店もマスターが亡くなると閉店となっていた。ぼくが学生の頃よく歩いたコースにはそれらがなく、定年退職して学生の頃に戻ろうとしても時代がそれを許さなかった。もうつまらなくてギリギリのところでしようがなく、自宅がある市の公民館の読書会に参加することにした。何とか命を繋いだ気分だった。兎にも角にも文化的な会話が最低限可能な、場所がそれで確保できることになった。ほとんどが、おばあちゃんだった。それでもマルケスやシェイクスピアやカフカを読んで、話をすることはできた。それで十分だった。自分のためには、ロマン・ロランやサルトル、バルザックやフローベール、野間宏や村上春樹、埴谷雄高、加賀乙彦などを読んだ。38年間のサラリーマン生活の垢をふるい落としたかった。文学だけでなく音楽も垢をふるい落とすには必要だった。むしろ音楽の方が効果があったかも知れない。レコードはステレオというものを廃棄してからは無用の物になった。その時、SPOTIFYというアプリの恩恵を受けることになった。中学生の頃から出会ったアメリカンポップスやロックやリズム&ブルース、そしてジャズのほとんどを再生することができた。音楽の方が若い頃の雰囲気に没入することができて、回想するにはとても役立った。
それはある程度成功した。ぼくは長い間失っていた自分を取り戻した。学生の頃の自分を取り戻せはしたが、時代は1972年の頃ではなく、もちろん2022年だ。何が違うのか、感性の領域とか、展望とか、状況の臨場感とか、気怠くても退屈ではない街の雰囲気とか、想像力の熱さなどだ。代わりに、古典の豊かさ、アイデンティティの系譜だとか、歴史の裏側への読解リテラシーなどでは遡行的発見があった。おそらく学生の頃よりは自立している実感がある。