開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

愚痴三昧にならなかった

主に経済的事情と母親の面倒を見る必要から現在の生活環境を大きく変えることはほとんど不可能なので、現状のままこの地に住まい続けているのだが、少々無聊をかこつのが抑えがたくなる。今、夕方で一日が終わろうとする時間帯ということもあるのかもしれないが、心の健康を愚痴を吐くことで保たれるのであれば、それをブログに書いてみようと思った。Youtubeでパリや東京の街の散歩動画を観ることがある。自分が歩いているような錯覚がするほど、臨場感があって時間つぶしにはいいかなと思う。そうすると自分の街が殺風景に思えてくる。乾いていて潤いがなく、そもそも人出がない。車なら交差点でしばしば渋滞になる程多い。散歩には適していないと思える。源氏物語でも基本的に都が舞台であり、須磨や明石は流罪の地になっている。田舎は価値がないものというか、辺境であって政治、文化の中心から疎外された場所なのである。ただし、女性が多様性を持って登場しているように、光源氏の人生も明暗ともども描かれて、荒れ果てた美も肯定しているように感じられる。わが田舎には荒れ果てた美もなく、ほどほどで平凡なのが退屈なのかもしれない。

、、、そういう時、自分の受動的態度が消費するだけになっていて、生産的になればいいとこれまで考えていたと思う。サラリーマンの時は今感じているような無聊はなかったと思う。農業法人のお客とは地域おこしのような仕事に恵まれていたことさえあった。田舎にも舞と郷土料理の文化があった。自分たちの作った米は、ニューヨークの日本人経営のフードコートに卸していたりした。今はそういう繋がりがないから無聊なのだ。だとしたら、今できるコンテンツ生産を創造することを考えるべきだ。

、、、もっと愚痴を書き出そうと思っていたが、書いているうちに前向きになってしまった。悲観的態度のまま続けるのも意外と難しいのかもしれない。

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