本を読む独特の充実した時間が好きで、その時間にうまく入れるといいのに、ここのところうまくいかない時の方が多くなっている。小説を次から次と多読するような、いかにも小説マニアの人がいるもので、話題になった小説は読まずにいられないらしい。ぼくはそれほど多く小説は読まないし、文芸以外の新書も継続して読めていない。わずかな経験から小説のことを考えてみたいと思ったのは、やはり自分という存在をなんとかしたいとか、現実に生きているこの生活世界以外に、自由でエネルギッシュで面白くて深い感動をもたらせてくれる世界があって、それを表現して構築するのが小説のような気がするからだ。昨日の読書会で、角田光代の「鍋セット」という短編を取り上げていて、小説では大中小の鍋を使いこなして最後には料理プロデューサーになる娘と母親の、いかにもありそうな親離れ、子離れの状況が描かれていた。ぼくは料理は全くダメなのだが、鍋という道具がいかに使い物になるかを何となく理解できた。つまり、自分が料理をしていたら感じることが、料理をしていなくても感じられた。参加者の一人は、テレビで角田光代のインタビュー番組を見たことがあって、角田光代の料理場面も映っていてそれはとても料理上手とはいえない様子だったと「暴露」した。自分では料理はヘタなのに、小説では手際よく組み合わせもバランスの取れた献立を料理するのだ。小説は現実には無様なものを綺麗にできるのだ。おそらくそれが小説家の隠された醍醐味なのだろうと推測できる。憧れを文章を使って擬似的に実現する能力のある人を小説家というのだろう。そうであればぼくは、自分の理想像の追求を小説でやりたい。