自分の今の気分とか精神状態を捉えようと書いてみる。そういうことをこれまで何度もやってきて、今の空虚を形あるものにしようとしてきた。予定していたことが実は勘違いで無いことに直前に気づいた。ぽっかり空いた時間が空虚を感じさせたのだ。これでも昔と違って、人と会う機会とかちょっとした用事とか、仲間とのメールなどというコミュニケーションの時間が増えていて、昔に比べれば空虚を感じることが減っているはずなのに、やはりなくならないものなのだと思う。今日は午前中に市の文化協会に、先日行われた読書会の総会資料を届けに散歩がてら行ってきた。久しぶりに事務局の富田さんに会った。彼女は若くて美人だ。最初に会長になった時の事務連絡用にメールして、簡単に挨拶したら彼女からぼくが読書会に加わって皆さんお喜びでしたよと歓迎の返事を書いてくれたのだった。それまで停滞していた読書会がぼくが入ったことで息を吹き返し活発になったと教えられて、その頃行き場のなかったぼくは逆に救われた気分になった。定年後居場所がないことはその頃大きな問題だった。地域にうまく溶け込めて一つの課題を乗り越えた気がしていた。繋がりはやはり大事だ。
さて今年の読書目標の3番目の図書は、山本哲士氏の「哲学する日本」(文化科学高等研究出版局)である。これが一番読むのに苦労している。直感で書かれている箇所もある文体は作者の造語がふんだんに散りばめられたもので、おそらく日本の小説しか読んでいない人は1ページも読解できないと思う。例えば、・・・・そこに、「非分離ー線ー感覚」、「述語制ー紙ー快楽」、「場所ー水ーこころ」のそれぞれの系を引いてある。近代的に言えば、論理・物質・身体であるが、この分離をなくしたい。・・・・
ぼくがなぜ自分の直感を信じてこの本を購入してまで読み通そうと目標にしたか、それはもう一度世界を肯定的に捉えて、自分を生産的に向かわせたかったからだ。その道筋を理論として掴みたかった。それはマルクス主義もナショナリズムをも越える立場を打ち立てるものとぼくには思われた。何しろ資本を現存する資本家のようにではなく、我が手にもたらすものなのだ。それには西洋近代の主語制ではなく、日本語の述語制が場所に踏まえた創造の力になる、らしい。(そこが直感たる所以なのだが)