開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

宮下奈都「アンデスの声」を読む

今年の目標の一つに読書会で読んだ本の感想文を書くというのがある。昨日それを書こうとして、それは情報発信になるか情報生産になるかを考えていて途中で面倒になってやめてしまっていた。情報生産になると何が違うのか、単に読んだ自分の感想じゃダメだとすると、感想自体に何か情報としての客観的な価値がなければならない、と言えるかもしれない。そして寝る前にその価値とはオリジナルな差異性だと気づいた。「アンデスの声」は文庫本にしてわずか21ページの短編なのであるが、ぼくは以前「羊と鋼の森」も読んでいて、共通するものを「発見」したのだった。その「発見」を持って客観的な価値にならないだろうか、と思った。同じ作者が書いた作品で共通するものがあって当然ではあるのだけれど、それは多くの女性作家では珍しいことのように思えた。女性であることを武器に書いている女性作家が多い中で、宮下奈都は女性だからという部分は感じられなかった。「羊と鋼の森」は調律という音の基準を取り上げている。「アンデスの声」はエクアドルのラジオ放送を取り上げている。共通するのは、特別な、その人にとってはかけがえのない唯一の「音」なのである。前者の音は「世界」に結びついているし、後者の音は単調に見える祖父の一生の労働の「糧」に結びついている。農夫であった主人公の祖父は、正月と盆以外は休まず毎日決められた農作業に従事していた。主人公である孫娘が祖父の看病のために会社を休んだら、「お前の仕事はそんなもんか」と祖父は寝床できつく言った。エクアドルのラジオ放送はおそらく海外の日本人向けに流されていて、放送を聞いた日本人は聞いたということをハガキで伝えると、ベリカードという写真や絵付きのカードが届けられる仕組みになっていたのである。そのカードを祖父は大事に集めていて、もう自分の人生を閉じようとするときに孫娘に「託した」のだった。孫娘は小さい頃おじいちゃんの家に遊びに行っていて、そのカードにあった紫の花のことをその時に、思い出したのだった。ぼくは宮下奈都に多くの女性作家とは違う資質を感じていて、それは彼女が上智大学の哲学科を出ていることと関係があると思っている。しかし硬い哲学界にあって女性らしい感性で学んだのだろう。ただ一つに収斂する「音」は、哲学的な素養を感じさせ、ジェンダーを超えて普遍的なモチーフになっていると思う。