開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

自分を改造する69歳に

自分の心の奥底には深層心理が働く層があって、そこでは人間の原初的な、幾層にも人類の遺伝子が積み重なっていて、個人という単位でありながら類的存在でもあるような客観性が眠っている、、、というのは実証することはできないので単なる仮定にとどまるのだが、しかしその仮定が動機となって心理学や唯識などの仏教哲学が構築されたり、村上春樹の小説で「井戸を掘る」などのモチーフになったりしている。しかし心というものは言語によって分節化されていると考えると、言葉発生の気の遠くなるような過程や構文や助詞などの統辞法によって編み込まれた構造と考える視点もあると思われる。今読んでいる、「哲学する日本」は日本語の微妙で精巧な言語体系を解き明かしてくれる。まさに目から鱗で、西洋かぶれで育ったぼくなどはてっきり日本語は曖昧性の情緒的な言語と思っていたら、日本語の方が細かいところまで論理的なのであった。それはさて置き、この開界録というブログで自分の心の奥底に住んで、蠢く小さな声を聞いてきた。ぼくが歩んできた人生にもその声は深いところでしていたのだろうと今になって思えることが多い。例えば、大学を出て就職するという時の判断場面で、その声はしていた、、、東京へは出なかった。大きな会社には引け目を感じた。肉体労働は無理だと感じていた。出来るだけ競争のないところに行きたかった。文学的な言葉を使うとしたら、すでに「厭世的」だった。しかし一旦決めたからには最後まで貫くと感じていたと思う。そうして大枠はその通りのサラリーマン人生を定年まで送ったのだ。

定年を既に過ぎ来月で69歳になる。職業選択の場面から40年近く経ち、定年の時はどのようなこころの声を聞いていたのか、、、「本当の自分の人生が始まる」と感じていたと思う。厭世的な自分を生産的な自分に鍛え直したい、厭世的に流れようとする動作をじっと抑え込んでいるように最近なったと思う。自分を改造することに欲望を感じている。