定年後の毎日は朝から晩まで妻と二人の時間が流れている。まるっきり一緒にいるわけではないが、食事はいつも二人で向き合ってする。当然であるが、部屋で一人で今のようにパソコンに向き合っている時間もある。時間と瞬間は違う。瞬間をかき集めても時間にはならない。妻といる時、瞬間には出くわさない。しかし全く無いわけでは無い。オヤっと瞬間顔を見たりすることがある。二人で歩いていて気がつくと側にいなくて、辺りを見渡すと彼女の姿を見つけたりする時の、一瞬は他人のように感じたりすることがある。見慣れているはずなのに、その一瞬は新鮮に感じたりする。その一瞬は非日常で、超越的で趣味的で詩的でさえあるかもしれない。そうだ、詩の世界に通じていると思う。
今spotifyで、グレングールドのモーツァルト・ピアノソナタを聴いている。ずっと聴いていて浸っていると表現した方がいいかもしれない。今のような時間が大学1年の時によくあった。あの頃はモーツァルトのピアノ曲そのものが新鮮だった。その音の流れを聴いていれば、どんなに貧しくても豊かな気持ちになれた。ぼくの生活のそれまでの慎ましやかな単色の庶民文化環境を色付けてくれるようだった。大学を卒業すれば社会に出て働かなければならないという現実をまだ遠ざけていられた。だからいつかはモーツァルト的な豊かさとは別れなければならなかった。でも、今は幸いなことに、いつまでも別れる必要がない。サラリーマンになると、会社という現実とモーツァルトの世界は両立できなかった。ぼくが勤めた会社はそんな余裕はなかった。競争社会とモーツァルトの無邪気さは相容れない。でも、今はそれを受け入れて平気でいられる。モーツァルトのピアノソナタに浸っている間は、非日常で、超越的で趣味的で詩的である。