開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

子供の心を持った大人

もうどこでその言説を知ったかは忘れてしまったし、正確にどう言われたかも記憶が怪しいのだが、大人と子供の世界の峻別が人間の自然な成長を妨げている、というような内容で、妙にぼくの心に響いたのだった。特に子供の心を持った大人を肯定することがもっと世の中を生きやすくする、という主張が含まれていた気がする。大人の心を持った子供は子供らしさを早くから失うようで、可哀想な気がするが、大人の考え方も知っている方が早くからコミニュケーションが上手になるかもしれない。では何が大人と子供の世界を分けるのだろうか? 端的に言えば、「他者」を理解するかどうかではないだろうか。自分しかいない世界が子供で、他人とうまくやろうとするのが大人だと言えないだろうか。自分のわがままを通そうとする世界の中に居続けるのが子供で、自分の敗北に遭遇して他の存在を認め、自分と違う人間がいることを知ると大人になるのだろう。ところで、もっと子供の部分を大人になっても持ってもいいという主張は、どのような価値を生み出そうとすることなのか? 単にわがままを押し通してもいいというわけではなさそうである。もっと遊ぶべし、ということかもしれない。定年退職して仕事以外に遊んだことがない会社人間だった人が、何をしたらいいか分からず「定年後難民」になるという事情がある。会社とは特に子供を嫌う組織である。わがままをいうものなら、即「活!」が飛んでくる。今の世の中が生き難くなっているのは、世の中が会社化しているからだろう。ところで、子供のような大人が許される関係が身近にある。それは恋人同士の関係だ。欧米人の方が恋人同士の大人が多いような気がするが、日本も万葉集の時代は大人の恋愛が大らかに歌われていたようだ。恋人の男が時の世情で流刑になった時、お互いの下着を交換しあって別れた、(そういう風習があった)ということを今日古典文学の会で知った。