今「トランス・クリティーク」を読んでいるが、哲学界にリアルな読書経験がないために、なかなか理解がスラスラ進まない。この本の著者の柄谷行人はすでに文学は捨てたと公言しているらしい。文芸批評は捨てたということなのだろうが、哲学に関してこの本を読みだしてから感じることは、批評という方法を哲学に対して用いている印象を受けた。まずは読了することが目標なので、途中で挫折しないように読んでいきたい。
さて、今日問題にしたいのは、文学はもう捨てるべきかということだ。文学といっても古典文学は別で、あくまで近代文学以降の小説について問題化されていると思われる。ネットに散らばっている柄谷行人関係の「情報」によると、彼にそう決断させたのは二人の村上の登場だったらしい。両村上によって文学が商品化されたと判断したらしい。そう言われれば肯定したくなる部分も確かに認められそうだ。ぼくのブログにも、吉本隆明によって村上春樹は読者におもねるようになったと指弾されたことを紹介している。江藤淳に至っては、村上龍は批評の対象にしてもらえているが、村上春樹は作品を読んでさえもらえていない有様だ。かつて文学は新聞雑誌の商業ベースにありながらも、独立ないし優越していたのに現在は支配されている、ということなのだろうか?文学は体制内に編み込まれて批判する精神を失ったということなのだろうか?文学は世界を超えて世界を作り変える力を失ったのかどうか、柄谷行人とともに考えてみたい。